「イエスもキレるんです」マタイによる福音書21:12~16

深谷教会降誕節第6主日礼拝2025年2月2日
司会:岡嵜燿子姉
讃美歌:21-18
頌栄:28
聖書:マタイによる福音書21章12~16節
説教:「イエスもキレるんです」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-53
奏楽:杉田裕恵姉

   説教題:「イエスもキレるんです」 マタイによる福音書21:12~16  佐藤嘉哉牧師

 わたしたちクリスチャンはノンクリスチャン、つまりクリスチャンではない人から見たら「怒ることのない、優しく完璧な人」という印象を向けられます。また浮世離れしている存在の様にも見られています。大体その印象というのは映画やドラマであったり、カトリックの神父やシスターであったり、それらのイメージによるものであると思います。神父もシスターもこの世に生きているのですから、決してそんな浮世離れしていたり、完璧な人格を持っているというわけでもありません。クリスチャンを含めすべての人には欠けがあり、感情に揺れ動きます。私は以前、ここ近年の中で最も大きな怒りを覚えた時があります。どのような場面であったかはご説明できませんが…。その時私の様子を見ていた人が「牧師でもキレる時があるのですね」と言って来ました。それは「牧師であるあなたが」なのか「牧師という職業の人が」という意味なのか、どちらの意味なのかは分かりませんが、とにかくその言葉に気づかされ、「神よどうかこの怒りを鎮めてください」と祈りました。どうかこの揺れ動く私の感情が収まりますようにと。怒ることを「キレる」と近代では表現します。「キレる17歳世代」という言葉を皆さんも聞いたことがあるかと思います。キレるは頭に来た時に感情が高ぶり、行動に出る様を指すそうです。怒るとはちょっと違うものです。人にとっては怒ること自体よくあることでありますし、それ自体が批判されることはありませんが、キレるはそうではありません。行動に出て人を驚かせたり、傷つけたりしてしまう恐れもあります。わたしたちはそうした感情を持たないようにするため、心穏やかに過ごしていくために教会へ通っていると言っても過言ではありません。そして怒ったりキレたりしたとき自分の罪深さに押しつぶされ、神へ許しの祈りを捧げることもあれば、神に顔向けできないと塞ぎ込んでしまうこともあるでしょう。
 しかし聖書を読めば、私たちが倣うべき人物である主イエス・キリストもたくさんキレていることに気づきます。主イエスに触れてもらおうと近寄ってきた子ども達を弟子たちが追い払おうとしたとき、主イエスは怒って弟子たちに「子ども達を来させなさい、妨げてはならない」と言いました。そして今日の聖書箇所こそ、主イエスが最もキレた場面です。主イエスは弟子たちを連れてエルサレムに凱旋入城された直後に起きた出来事です。群衆は「ホサナ」と叫び、救い主として迎えたばかりでした。そして主イエスは真っ先に神殿へと向かいます。その神殿はイスラエルの人々の拠り所であり、神を崇める最も神聖な場所でありました。ユダヤの人々はそこに契約の箱を置き、神に祈りを捧げていました。エルサレムに入城した主イエスが真っ先にその神殿へと向かったのは当然のことです。しかし主イエスが目にした神殿は、聖なる場所とは程遠い場所となっていたのでした。商人たちが神殿の庭で商売をしていたり、両替人たちが机を並べ利益を得ていたり、異邦人の庭は礼拝の場所ではなくその異邦人たちによる市場が開かれていたりしていたそうです。なぜこのような商売が神殿で行われていたのか。エルサレムの神殿は聖地であり、すべてのイスラエル人が集まる場所でした。遠い場所から旅をしてきた巡礼者がそのほとんどです。神殿で礼拝を行う時、焼きつくす捧げものを用意しなければなりません。自分で用意しても旅の途中で腐ってしまうので、巡礼者はエルサレムの市場でその捧げものを買っていました。また献金も両替しなければならず、そこに目を付けた商人や両替人が店を神殿の中に立てていたのです。両替人は自分の懐にお金を入れていました。異邦人が礼拝する場所も利益を得るため店が立ち並び、神聖な場所ではなく観光地のような状況となっていたそうです。本来神殿はそのような場所であってはなりません。足が不自由な人や夫を失った女性が依る場所でもあるはずです。弱くされた人々に開かれた場所である神殿から彼らは追い出されていました。主イエスはその神殿に入ると突然、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされました。そして言います。「『わたしの家は、祈の家ととなえられるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。ヨハネによる福音書でもこの神殿での主イエスの様子が書かれています。それによると縄で鞭を作り羊や牛を全て境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒したとまで書かれています。まさにこの主の様子はキレていると言えます。主イエスにとって神殿は自分の父である神がいる場所であり、祈りを捧げる自分の家です。その場所を本来の形を無視し自分勝手に好き放題する人々を許す事が出来なかったのでしょう。「強盗の巣」と言ったのもそれが背景にあります。
 主イエスがキレるのも無理はありません。どんなに神の独り子であり神ご自身である主イエスであってもキレるんです。しかしそのキレる理由は、自分がこの状況を気に入らないからだとか、そういった人間としての怒りからではありません。ヨハネ福音書ではこのことについて「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という預言が書かれています。主イエス個人の怒りではなく、この怒りも行動も全ては神の計画の内にあり、神の家の聖さを回復させようとする預言的行為であったのです。
 商人たちを追い出した後、静まりを取り戻した境内に目の見えない人、足が不自由な人が主イエスのみもとに来たので、主は彼らを癒したそうです。そして「ダビデの子に、ホサナ」と子どもたちが叫びました。神殿と主イエスの本来の姿が回復しました。人の私利私欲のために用いられていた神殿は、神である主の怒りによって打ち砕かれ、本来の姿へと戻りました。しかしこれを見ていた祭司長や律法学者は怒り、主イエスに反抗しました。怒る主イエスの態度と対比する形で、自分の事しか考えずに怒る祭司長や律法学者の態度を現わす。この関係性が見事に表現されています。
 時にわたしたちはこの箇所を読むと、「主イエスでもキレるんだ」と思い慰められるでしょう。私も一時そう思いました。しかし主イエスは決して自分の感情にまかせて怒ったのではないことがわかりました。主イエスは怒りはしても、それは神の為であり弱くされた人々のための怒りであったことを私たちは知るべきです。慰めを受けると同時に自分たちはどうかと思い返す時です。
 時代や形・場所が変わっても、この教会は神殿と同じように神の家であり、祈りを捧げる場所であります。傷つき苦しみを持った人々が癒される場所であり、神の憐れみと恵みが現される場所となるべきです。しかし時にわたしたちは教会という場所を自分の好きなように捉えすぎてはいないだろうかと思いめぐらせます。商業主義や世俗的な価値観が入り込んでいないだろうかと。傷つき疲れ切った人々が癒される場所となっているだろうかと。子ども達が「ダビデの子に、ホサナ!」と叫んだ様に、わたしたちもそうした利益などに固執せず、何よりも主イエス・キリストへの信頼と感謝の祈りを捧げることができるようになりたいと思います。私たちの教会が、真に神の家としてふさわしい場所となるよう、共に祈り、歩んでいきましょう。

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