深谷教会降誕節第5主日礼拝2025年1月26日
司会:斎藤綾子姉
聖書:ヨハネによる福音書8章21~36節
説教:「世に向かって語る言葉」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-443
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「世に向かって語る言葉」 ヨハネによる福音書8:21~36 佐藤嘉哉牧師
先日ドナルド・トランプがアメリカの第47代大統領に就任しました。彼は2020年に一度ジョー・バイデン前大統領に選挙で負けましたが、2024年に大統領へ再選しました。任期を継続しないで再選するのは132年ぶりということもあり、アメリカのみならず世界中から注目されるでしょう。彼は就任式の最初に「米国の黄金時代がいま始まる。この日からわが国は繁栄し、世界中で再び尊敬されるだろう。全ての国の羨望の的となる。米国がこれ以上つけ込まれることを許さない。トランプ政権下の日々、私は非常に明快に米国を第一に据える。」と、アメリカ国民へ語りました。これは世界へ向かって語る言葉でもあります。これから世界がどうなるかはわかりません。トランプ大統領の人物像からしたら、仲良くなれるかもわかりません。しかしアメリカ大統領という世界に多大な影響力を持つ立場であるからこそ、主の平和を作り出してほしいと願うばかりです。
影響力のある人物の言葉はいつの時代も人に注目されます。それこそ主イエス・キリストはこの世界で最も影響力のある人物です。この主イエス・キリストの行動・言葉・奇跡は毎週日曜日に欠かさず話題になっています。2000年以上前に生まれたこの人のことを今もなお語り伝える。主イエス・キリスト以上に影響力とカリスマ性を持ち合わせた人はいません。そんな主イエスの言葉は時に誤解や分裂を作ります。先週の説教で語った「婦人よ、あなたはわたしと、なんの係わりがあるのか」という言葉がまさにそうです。また今日の聖書箇所にも驚く言葉が出てきます。「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを探し求めるであろう。そして自分の罪の内に死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない。」この言葉は多くの人々を躓かせる言葉です。理解するのも難しく、受け入れがたい内容です。「自分の罪の内に死ぬ」はどういう意味なのでしょう。罪という物はキリスト教の中で死よりも重い恐るべきものであるとされています。罪がある状態であれば神と主イエスの愛を受けることができず、その罪の内に死ぬというのは危機的状況を現わしています。主イエスと議論を交わしていたのは律法学者やパリサイ人、そしてユダヤ人たちでした。彼らは主イエスの数々の奇跡や言葉を聞いてきたのに、主イエスを未だ信じず懐疑的で批判的な態度をとっていました。主イエスが言った「自分の罪の内に死ぬ」は、自分と議論を交わす人々をはじめとした、自分を信じない人々の霊的状況について、厳粛な警告を発しています。罪が人間の最大の危機であり、その罪から逃れようと神の御子・救い主を探し求めるが、自分が去った後ではそれが出来なくなる。そう言っているのではないだろうかと思います。私たちは自分の力で神に近づくことができません。罪は私たちと神との関係を断ち切り、霊的な盲目をもたらすのです。これを聞いていた人々は「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あるいは自殺でもしようとするつもりか」。と聞きます。彼らの霊的状況がどのようなものであるか、これではっきりします。「自分は神に救われる」ということを疑いもしていないということです。本来聞くべきことは「罪の内に死ぬ」ということであるはずです。「罪の内に死なないためにはどうすべきでしょうか」と尋ねるべきです。しかし自分には罪がなく、罪の内に死ぬことはないという勝手な確信があったということがわかります。自ら命を絶とうなんてこと、どこにも書いていないのに。
人々のこの質問に主は答えます。「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである。」「上から」とは、単なる物理的な意味ではなく、神の領域、神の御子としての来訪者を意味しています。イエスは私たちが想像もしえない真理をもたらす者であり、世の人々とは違う存在であることを証します。その主イエスを信じることがなければ、自分の罪からの自由は実現しないのです。人々は上からきた神の御子・救い主イエスを目の前にしながらも「あなたは、いったい、どういうかたですか」と尋ねます。「わたしがどういう者であるかは、初めから言っているではないか」と答えますが、本当に初めから証していますよね。これが「罪の内に死ぬ」人の姿であるのです。そのことに多くの人々は気づいていません。それを主イエスはご存じであり、「あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、沢山ある。」とあります。神の御子としての言葉です。しかしそれは個人的な意見ではなく、父なる神から聞いたままであり、主イエスが語るものは神の言葉そのものでもあることを証します。主イエスが世に向かって語る言葉は、神の言葉であるのです。わたしたちはこのことにどれほど理解できるでしょうか。自分こそが正しいということを信じ疑いもせず、神と主イエス・キリストをその証明にしてしまってはいないだろうかと思い返します。キリストを信じるということは、自分の罪と向き合うことと同義です。自分の罪と向き合い、その罪を主が取り除いてくださったという「愛」を信じ、また繰り返し罪を負ってしまう自分の悔い改めの繰り返しであります。世に向かって語られる主イエス・キリストの言葉は私たちを罪から解き放ちます。恵みの内を歩ませてくださるのです。
世界情勢は日々刻々と変わります。こんな人物が世界の運命を変えてしまうのかと恐怖することもあるでしょう。期待と不安、喜びと悲しみが世界を覆っています。人が人の世に語る言葉は蜜のように甘く、一見良い物の様に感じるでしょう。実際それが良い方向に進めばいいのですが、必ずそうなるとも限りません。また今は不安な要素があっても、それが良い方向へ進むことだってあります。わたしたちは未来を知る術がないだけ、先の見えないものに恐れを抱くものです。人がこの世を支配している間はやはりそうなるのが世の常なのかもしれません。しかし私たちは人がこの世に語る言葉に一喜一憂する必要はありません。なぜなら神が語る不変の言葉を私たちは知っているからです。主イエスが去ったのちに多くの人々が信じると主イエスは語り、実際そうなりました。わたしたちも生まれてきた時代がそうでありますが、間違いなく主イエスの十字架での死と復活を知って信じた、その多くの人の内のひとりですから、罪に陥りやすい状態であるのです。その罪から始まる自己肯定、罪の無認識から罪に陥らないように生きていきたいと思います。そのためには何よりも主イエスと神の不変の言葉に希望を見出し、世の情勢が良くても悪くても、主の平和を作り出そうと歩むことが大切だと思うのです。天にまします我らの父よ、ねがわくば御名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。この祈りがわたしたちの真の祈りとなるよう、神の言葉に耳を傾けて歩んでいきたいと思います。