深谷教会降誕節第4主日礼拝2025年1月19日
司会:野田治三郎兄
聖書:ヨハネによる福音書2章1~11節
説教:「わたしと、なんの係わりがあるのか」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌21-458,286
奏楽:野田周平兄
説教題:「わたしと、なんの係わりがあるのか」 ヨハネによる福音書2:1~11 佐藤嘉哉牧師
カナの婚礼は主イエスが行った最初の奇跡です。先週説教では、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、弟子たちと出会ったことをお話ししました。今日はその直後にあった主イエスの奇跡を見ていきたいと思います。
ヨハネ福音書2章1節には、主イエスがどのような場所にいたのかが詳細に語られています。「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、」とあります。三日目は「主イエスが洗礼を受けて三日目」ということであり、主イエスが公に伝道を始められた直後だということがわかります。またイエスの母マリアもここにいたとあります。このカナで婚礼を行っている人はイエスの親戚であったとされています。ですから母がイエスと共に出席することは自然なことであります。また主イエスも主イエスと出会ったばかりの弟子たち、「ペテロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエル」も婚礼に招かれたとあります。この婚礼は非常に大きなものであったことがわかります。当時の婚礼は裕福な家であることを知ってもらうため、数日にわたり、家族親戚友人関係なく誰でも招いていたそうです。その準備が大変だとか考えることもなく、自分の家の名誉と家族の繁栄を知らしめるためにしていたことだそうです。その婚礼の席にはぶどう酒はなくてはならない物でした。食べ物もさることながら、ぶどう酒は婚礼がすべて終わるまで切らしてはならないとされていました。もし切らしてしまったら、この家は人を招いても与えることができない貧しい家だとレッテルを張られるからです。そのぶどう酒があろうことかなくなってしまいました。こんなことがあってはならないと困ったマリアは主イエスに「ぶどう酒がなくなってしまいました。」
それにしてもです。主イエスが弟子たちを伴って婚礼に参列していることも不自然ではありません。しかしここでわたしは何か違和感を覚えます。親戚の婚礼であることはわかりますが、弟子たちと共にいる主イエスは一人前と見なされる立場であると思うのですが、そこに「母親マリア」の存在を主イエスより前に述べているという点です。主イエスがその時どうされたかを伝えるのが福音書の目的であるはずなのに、なぜこういう順番で書かれたのか。それは単純な場面設定ではなく、最初に母マリアが婚礼の場に既にいてぶどう酒の状況がわかるような立場、つまり給仕の状況がわかる場所にいたのでしょう。そのような時に主イエスが弟子たちと共に来た、という状況を伝えているからなのではないかと考えました。「親戚の結婚の席に呼ばれたけど、ぶどう酒がもうすぐ切れそう。切れてしまったらあの人は貧しい人だとレッテルを張られてしまう。新婦もそうなればひどい差別を受けるようになってしまう。ああどうしよう。そんなことがあってはならないのに…。え?イエスがやっときた?一体どこにいたというのかしら。しかも弟子?知らない人まで連れて来て…。まったくあの子は。でもあの子は生まれる前から神から特別な力を受けてきたのよね。このどうしようもない状況の時にやっときたのは、何か意味があるのかもしれない…。そう、この子は神に愛されている神の子ですから、わたしたちの困っていることを聞いてもらいましょう。」というマリアの思いがあったのではないかと思います。
「ぶどう酒がなくなってしまいました。」と告げられたイエスは、心配と焦りの中にある母に向かってこう言います。「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。」なんとも反抗的で冷たい言葉だと思いませんか。困っている時に「あなたとわたしは何の係わりがあるか」というのです。こんな事言われたら傷つきませんか。主イエスは冷たい人なのかと思われてしまっても仕方がない言葉です。「わたしの時は、まだきていません。」という言葉も難解ですし、マリアを突き放しているように思えてきます。この言葉で躓く人もいるでしょう。わたしも最初は驚いた覚えがあります。
わたしたちは聖書を読むとき、こうした躓きを経験することが沢山あります。なぜ傷つき悩ませるようなことを神と主イエスは言い、行うのだろうかと。その時わたしたちはどの立場に心を向けて聖書を読んでいるでしょうか。主イエスに出会った人たちでしょうか。今日の箇所でいえばマリアに自分の心を向けて読んではいないでしょうか。もし主イエスが人の心をあえて傷つけるような言葉を言っていなければ、人々から憎まれることもなく十字架にかかることもなかったでしょう。しかし神の意思はそうではありません。そう、主イエスの言う「私の時は、まだきていません。」という言葉は、人の期待や計画とは異なる神の完璧なタイミングで奇跡は行われるという意味です。自分の期待とは全く無関係に奇跡は行われる。だからマリアは母親という立場から「ぶどう酒がなくなってしまいました。」と現状を報告したのも、どうにかできないかという期待があったのです。いわば神を試す行為にもなるのではないかと思います。しかしそのマリアに対して、「あなたとわたしになんの係わりがあるのか。」と、人間と人間の関係ではなく神と人との関係をここで伝えました。この言葉を聞いたマリアは憤慨せず、主イエスの言葉を理解して「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい。」と僕たちに指示します。ここで母と子という関係が終わりを迎えたと捉えられます。
主イエスは僕たちに「かめに水をいっぱい入れなさい」と指示します。指示通りすると、かめの水がぶどう酒に変わっており、それを飲んだ料理がしらは花婿に「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。」と褒めます。結局イエスはなんとかしてくれたじゃないか。あんな冷たい言葉を言わなくても良かったのではないか、と思う人がいるかもしれません。ですがこの奇跡は婚礼を失敗に終わらせないように助けたという話ではなく、主イエスの奇跡によって神の栄光が人々に示されたということを語っているのです。11節でも「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現わされた。そして弟子たちはイエスを信じた。」とある通りです。人の大小の困りごとを解決したという話ではなく、神の栄光を現わさんとする主イエスの歩みが始まる、その最初の出来事がここで書かれています。今までの家族としての係わりが終わり、真に神の子・救い主イエス・キリストとして歩みだした主イエスの姿を見て、わたしたちはどう思うでしょうか。主イエスを自分の都合の良いものとして捉えてはいけません。時に躓くようなことを言われて、じゃあもう信じるのやめるなんて思いになってしまってはいけません。何よりも主イエスが成そうとされていることは、神の栄光を現わすことです。その栄光が現れるのは人の都合や期待には因らず、完璧な神の計画の内に行われるということです。その栄光が現された時、わたしたちはどの立場になるでしょうか。ああ神さまが何とかしてくれたありがとう。とただ思っていては、信仰は続きません。マリアや弟子たちの様にイエスを信じる者となるべきだと思います。日々生かされていることも神の栄光です。今この場におり礼拝を守ることが赦されているのも、また栄光です。自分たちの期待とは違っていても、その与えられている栄光に心を向けて歩んでいきましょう。