深谷教会降誕節第3主日礼拝2025年1月12日
司会:高橋和子姉
聖書:ヨハネによる福音書1章35~51節
説教:「見よ、神の小羊」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-494,475
奏楽:小野千恵子姉
説教題:「見よ、神の小羊」 ヨハネによる福音書1:35~51 佐藤嘉哉牧師
出会いはとても素敵なものです。人生は出会いの連続であり、その出会いによって人生は様々な形に変わっていきます。出会いによって転ぶこともあれば、起き上がることもあるでしょう。出会って良かったなぁという思いが起こることもあれば、出会わなければ良かった、と思うこともあるかと思います。人生はそうした出会いの連続を繰り返す中で、より豊かになって行く。その中でも、イエス・キリストとの出会い程人生を変える出来事はありません。ここにいるみなさんは、主イエスとの出会いという劇的な出来事によって召し集められたのです。本日の聖書箇所には、主イエスの最初の弟子たちがイエスに出会う場面が描かれています。
最初に洗礼者ヨハネと彼の弟子の2人がいました。洗礼者ヨハネはこの時たくさんの人々に洗礼を与えていました。強い力によって洗礼を授けているこの方こそ、わたしたちを救うために来られた神の使者だと思い、沢山の人がヨハネのもとに集まっていたのです。あまりにも多くの人が集まるので、時の権力者は何人かをヨハネのもとに遣わせて質問します。「あなたは誰か。預言者エリヤか。あの預言者か。」しかしヨハネはすべてを否定し「わたしは、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」と答えました。ユダヤ人にとって偉大な預言者が再び来られたという事の方が理解できたでしょう。しかし洗礼者ヨハネのこの自己開示は謎めいていて、さらなる疑問を生じさせます。「では、キリストでもエリヤでも預言者でもないのに、なぜ人々に洗礼を授けるのか?」という疑問です。キリストでも預言者でもないのに、その両者がすべきことをあなたがするのか。これに対してヨハネは、「わたしは水で洗礼を授けているが、あなた方の中に立つ方は聖霊によって洗礼を授けるだろう。わたしはその準備をしているだけだ。わたしはその人に遠く及ばない」と答えます。わたしたちの今までの歩みだってそうであると思います。急にふと主イエスの存在を感じることなんて稀なのではないかと。主イエスを私たちの救い主だと告白するまでの間に、沢山の出来事と出会ってきて、その中で主の支えと力があったことを何度も何度も感じて信仰は培われていくはずです。信仰を告白するまでの準備の時がわたしたちにも与えられているのです。
さて、その洗礼者ヨハネは次から次へと人々に洗礼を授けていると、並んでいる人々の中にとりわけ輝く人がいることに気づきます。その人こそイエス・キリストであるとわかったヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊が来た。」と人々に伝えます。彼の務めがここで成就するわけです。そして滞りなく洗礼がイエス・キリストに与えられた時、天からの祝福があったとヨハネは証します。
その翌日ヨハネはまた2人の弟子たちと共に立っていると、主イエスがおられるところを見て、「見よ、神の小羊だ。」と言います。この証を聞いた弟子はイエスの後について行きました。主イエスは「何か願いがあるのか」と問うと「先生、どこにおとまりになるのですか」と聞き返します。一見このやりとりはつじつまが合わず違和感を覚えるでしょう。しかしこのどこにとまるのかという問いは、「あなたのとまっている宿へ行き、教えを受けたい」という意味があるそうです。当時の人々の習慣では、教えを受ける場所は学校ではなく宿であり、弟子は師と生活を共にし、昼も夜もその教えを受けるというものでありました。つまり彼らの願いというのは、ただ宿はどこにあるのか知りたいというものではなく、その宿へ私たちも行き、あなたの教えを受けたいというものでありました。ですからその時弟子たちはイエスのことを「ラビ・先生」と呼んでいるわけです。自分が今までついていた師であるヨハネが、「あの方こそ神の小羊だ」と言ったこのナザレのイエスとはどんな人物なのか。それをこの弟子たちは知りたかったのでしょう。この2人の質問即ち願いを聞き、主イエスは「来て、見なさい。そうすれば分かるだろう」と言い宿へ招きます。2人の弟子のうちひとりはシモン・ペテロの兄弟アンデレでした。名前がはっきりわかる主イエスの弟子の第一号はアンデレであったのです。時々わたしたちはペテロが一番弟子だと思うかもしれません。しかしそうではなく、アンデレが最初だったのです。彼は夜通しイエスからの教えを受け、信仰を熱く燃やして兄弟のシモン・ペテロを連れてきます。「わたしはメシアにいま出会った」と、信仰を告白しました。そして彼を主イエスの元へと連れてきます。ペテロは言わずもがな頑固な性格でしたから、兄弟であるアンデレがそう告白しただけで主イエスの所に行こうと思うでしょうか。聖書には書いていませんが、このペテロにも主の教えが伝わり心が熱くなって、本人に会いたくなったのではないかと思うのです。
ここで注目したいのは、アンデレとペテロの兄弟がどう主イエスと出会ったかです。ふたりは洗礼者ヨハネからアンデレへ、アンデレからペテロへと主イエスに自ら出会いに行っています。そしてアンデレとペテロは主イエスと出会うことで、今までの人生が劇的に変わっていきました。もうひとり、後に弟子となる人物が出てきます。それがピリポです。ここでピリポは主イエスから「わたしに従ってきなさい。」と声をかけられます。アンデレやペテロは自ら出会いに行っていましたが、今度は主イエスからピリポに出会いに行っています。この2つの方向の違いは他の福音書にはありません。さらにそのピリポによってナタナエルが主イエスと出会い、弟子たちが集められていきます。
実はこの主イエスとの出会いは、先ほども言いましたが他の福音書にはまずない描かれ方がされています。思い返しましょう。アンデレとペテロは他の福音書、特にマルコによる福音書では漁師であり、ガリラヤの海辺を歩いていた主イエスに「人間をとる漁師にしよう」と声をかけられます。そもそもアンデレはヨハネの弟子であったことすら違っています。そして弟子となる12人は主イエスからの出会いを受けているのに対して、ヨハネによる福音書は主イエスへと出会いに行く人々と、人々へと出会いに行く主イエスの両方の姿を描いています。これは明らかにヨハネが他の福音書記者と異なる信仰理解を持っていたからだと思います。他の福音書とは書かれた年代もずっと後年ですし、一定のキリストの印象というものが各共同体に浸透した後に書かれたものでありますから、主イエスの捉え方も他の福音書と差別化させなければいけません。しかしそれは商業的な試みではなく、何よりも主イエスが人となり、神の小羊として人々と沢山出会い出会われたことを伝えています。いつ神は救い主を与えて下さるのか、と受け身であり続ける人々の姿を描くのではなく、この人こそ救い主だと確信をもって出会いに行く人々の生き生きとした姿勢を美しく画いています。わたしはこれを見ていると、わたしたちもそうであるべきだと思うのです。聖書にも「求めなさい。そうすれば与えられる」と書いてあるのに、あまりにも受け身すぎなのではないかと。神が何とかしてくれると、神に全てを委ねているようで無気力になっていることの理由をただ言っているだけなのではないかと。そうではあってはならないと思います。たとえ神の救いを疑うことがあったとしても、その救いが与えられることを願うばかりではなく、その救いを求めて神を信じることも大切ではないかと思うのです。「求めることで与えられる」こともわたしたちはこれまでの歩みの中で何度も出会ってきたことです。何よりも主イエスが神の小羊としてこの世に来られ、わたしたちの贖いとなられたのも、神に救いを求めた私たちの声が届いたからにほかなりません。神は誰よりも私たちを愛してくださっています。その愛を一心に受けている私たちはその信仰を胸に神と出会っていきたいと思います。