「ヨハネとイエス」マタイによる福音書11:2~19

深谷教会待降節第3主日礼拝2024年12月15日
司会:野田治三郎兄
頌栄:28番
聖書:マタイによる福音書11章2~19節
説教:「ヨハネとイエス」
   佐藤嘉哉牧師

      説教題:「ヨハネとイエス」マタイによる福音書11章2~19節 佐藤嘉哉牧師 

 人が物事を考えたり理解したりする時は、自分の経験を基にすることがほとんどです。それは経験が多ければ多いほど、実践する場で活かされるでしょうし、その経験の度合いによって責任ある立場に抜擢されることもあるでしょう。また過去の成功体験によって自信を持つこともできます。まさにこの世界は経験の有無で人が見られているというわけです。しかしやはり人の経験というものは限界がありますし、その経験を活かす場が必ず与えられるかもわかりません。そうした経験を活かすことができる場にいること自体珍しい事なのかもしれません。自分が望んだことが不思議と叶えられることもあれば、望んではいない場所を与えられることだって往々にしてあります。だから多くの日本の人に「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子さんの言葉に励まされるのではないかと思います。
 人間の限られた理解と人間の偉大な計画の対比を鮮明に描いています。洗礼者ヨハネはヘロデ王の不正を訴えた事で捕らえられ、牢屋に入れられていました。その洗礼者ヨハネの弟子たちを通じて、主イエスに質問を送り、主イエスがその質問に答える場面は、信仰と疑いの複雑な関係を示していると思います。ヨハネは主イエスの話を獄中で聞き、最も重要なことを質問します。それは「『きたるべきかた』はあなたですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。」という質問でした。「きたるべきかた」は「救い主」のことです。「あなたが預言者が言っていた救い主なのか」と確認しました。これは信仰者であっても、この様な疑問を抱くことがあるでしょう。「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩け、思い皮膚病の人は癒され、耳は聞こえるようになり、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」と、自分がこれまでしてきた数々の奇跡をもって答えています。それにしてもこの自分のしてきたこと、即ち主イエスの経験をヨハネに説明すること。これこそ私たち人間と神の独り子であるイエスの大きな違いでしょう。それこそ医療技術の進歩によってさまざまな病気を治療することができるようになりました。しかしこの主イエスがなさったことは人の力では到底できないことです。その最たるものが「死人の生き返り」です。こんなことこれからの時代もできないことです。人が死ねば生き返ることはできないというわたしたちの経験や知識、常識をはるかに越えた神の御業がここであらわれています。そしてその軌跡を前にした人々の事を「わたしにつまずかない者は、幸いである。」と祝福しています。人の常識や経験に囚われず、神の御業を心から信じる人こそ幸いであると。主イエスは奇跡と預言の成就を通じて、ヨハネに希望と確信を与えました。この希望に満ちた答えを携えて、ヨハネの弟子たちは帰って行きました。
 この時ヨハネの弟子たちと主イエスの他に、その話を聞いていた群衆が周りにいました。おそらくこの時既にヨハネが捕らえられていることを多くの人々は知っており、主イエスへ弟子たちを送ったこと、またそのヨハネのことを快く思っていない人々は悪口を言っていたのではないかと思います。どんなことを人々が噂していたかは分かりませんが、明らかに7節以降の主イエスの言葉には厳しさがあります。主イエスは洗礼者ヨハネに与えられた神からの務めを知っており、その必要性を十分理解していました。だから「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう」というエリヤの言葉を引用したのです。過去にいたどの預言者よりも、この神の御子の道を整える者は偉大であると。これだけの言葉でも十分なのですが、さらに「女性によって生まれた者の中で、ヨハネより偉大な者は現れていない」とまで言っています。ヨハネは自分の親戚であり、神の力によって生まれたのだという出自を知っていたから、この様に言えたのではないかと思います。しかし主イエスは彼の出自や使命だけで彼を讃えたのではなく、何よりもヨハネ自身の神への献身的な姿勢があったからです。ただ神のため、自分の後に来る救い主の歩む道を整えるという使命に邁進している彼の信仰心を主イエスは讃えているのです。
 神の大いなる計画、人の救済に邁進しているヨハネとイエス。その2人の前には人間の経験や常識をはるかに越えた力があります。しかし当時の人々はその神の力・御業に気づくことができていませんでした。この世界にはそうしてつまずく人々が本当にたくさんいます。16節から19節までの状況も今のわたしたちを取り巻く環境に通ずるものが沢山あります。人々は神の言葉に耳を傾けることなく、自分に都合の良い場所のみを望んでしまいます。天の国がそんな場所であるはずがないのに。人が不信仰に陥ると、どこまでも落ちてしまうのですね。恐ろしさすら感じます。
 その対比として讃えられたヨハネは、とても救われた気持ちになったのではないかと思います。「あなたが救い主なのか」と伺いを立てることは、見方を変えれば不信仰な態度になってしまいます。しかしこのヨハネは自分の言葉を信じるという確信が主イエスにはあったのでしょう。この質問を咎めることなく、むしろ大いに「わたしがその人である」と答えたのです。この答えを聞いたヨハネは喜んだのではないかと思います。自分は正しい事をしたのに、牢屋に入れられているという理不尽で耐えがたい状況を前に、主イエスこそ救い主だとわかっていても疑いたくなる。そういう揺らぎも主イエスは受け入れ、その疑いを解消してくださるのです。そして自分が望んでいない状況であっても、その場にいることに意味がある。神と主イエスの栄光を伝える使命があることに気づかされるのです。使徒パウロも宣教旅行の際何度も逮捕され、死刑にされるほど理不尽な状況にあっても「このことによって神の栄光が現されるなら、それにまさる喜びはない」とまで言っているのです。主イエスと出会い、その場所にいること。この意味を味わうとき、わたしたちには大きな喜びがあるのです。
何よりも私自身、この深谷教会に招聘されてから、様々な点で経験を基に牧会をしています。新しい風がこの教会に吹くようにと思い、経験を活かしていこうと思っています。そうした経験を活かすことができている状況に心から感謝したいと思います。これは自分が望んだからではなく、神がその場を整えて導いてくださったのです。神の大いなる導きと御業に驚くばかりです。しかしわたしたちの身の回りには、今この時も「どうしてこんな所にいなきゃいけないのか」と悩み、心をふさぎ込んでしまうような人々がたくさんいます。こんなはずじゃなかったのに…と。ヨハネとイエスが本日の聖書箇所のように互いに言葉を交わしたように、すべての人に神のみ言葉は降り注いでおり、その場所にいることが神の栄光をあらわすことに繋がるのだという確信を持つことができるのです。すべての場所にいることに意味があり、神の栄光を伝えることができるのです。これから先歩む中で、こんなはずじゃなかったのに…。自分が望んだものじゃないのに…という思いになる場面が沢山あるでしょう。しかしその中に必ず神の力があります。神の御業が働かれています。わたしたちはその場所で花を咲かせようではありませんか。主の栄光を表す大きな花を。

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