「大工の子」マタイによる福音書13:53~58

深谷教会待降節第2主日礼拝2024年12月8日
司会:山口奈津江姉
聖書:マタイによる福音書13章53節~58節
説教:「大工の子」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-280
奏楽:小野千恵子姉

    説教題:「大工の子」 マタイによる福音書13章53~58節    佐藤嘉哉牧師

 「チ。-地球の運動について-」というアニメが10月からNHKで放送されています。皆さんは見たことや聞いたことがあるでしょうか。わたしはこの作品を、アニメで見るまでは知りませんでした。これは魚(うお)豊(と)という作者による同名の漫画が原作です。15世紀のヨーロッパを舞台に命がけで禁じられた地動説を研究した人々の生きざまと信念を描いた作品です。もうお気づきの方もいらっしゃると思いますが、この物語はこの地上が宇宙の中心で、天がその周りをまわっていると説いていたキリスト教と、地上が天の中で回っているという地動説を説いていた人々との闘いが描かれているのです。主人公は地動説を研究する人ですから、やはりその敵対者つまり作品における悪的存在はキリスト教です。少々複雑な心境ではありますが、もともと空を見て瞑想するのが好きな私ですので興味本位で見てみたのです。するとですね、あることに気づいたんです。それこそこの物語の中で描かれる生活様式や人々の言葉・文化はキリスト教そのものです。しかしその宗教を「キリスト教」と呼称していません。そしてその地動説を研究した人の境遇が、今までの自分の思っていた状況と違っているという点です。漫画やアニメですからもちろんフィクションですが、この地動説を唱える人への迫害は、そこまで激しく深刻なものではなかったという見解がなされていることに驚きました。現代の日本ではガリレオ裁判などの印象が強いためか、「中世ヨーロッパでは地動説を唱える者へのキリスト教による激しい迫害・弾圧があった」と信じられていることが多いのですが、カトリック司祭であったコペルニクスが教皇に直接地動説を説き好評を得ていたという話はあまり知られていません。こうして史実とわたしたちの認識の違い、知識の違いにこの「チ。」という作品のテーマを置いているわけです。チ。は地上の地と、知識の知から来ているのですから。
 さてこのアニメを見ていると、作中に出てくる人が陥っている問題が見えてきました。それは「馴染み深さ」への絶対的信頼と思考停止です。自分の生活や固定概念を大切にしすぎている。そう思うのです。わたしはそれを「馴染み深さの落とし穴」とこれから呼びます。この「馴染み深さの落とし穴」は今日の聖書箇所にも言えることだと思います。例えば55節でナザレに住む人々が主イエス・キリストのことを「大工の子」だと言ったシーン。ナザレから出立した「ナザレのイエス」「大工の子」が多くの地で奇跡と説教を行い、沢山の名声を受けて帰ってきた。このこと自体ナザレでは喜ぶべきことだと思うのですが、そうはなりませんでした。人々はイエスのことを「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。母や兄弟もたくさんいるのに、どこからこれを習ったのか」と批判し、拒絶したのです。これは私たち人間には、身近な人の変化を軽視するという心理的傾向があるのだそうです。例えば近所に住んでいる、小さい頃から知っている子どもが成長しても、その成長と変化を見落とし、彼らを固定された過去のイメージで判断してしまうことがあるでしょう。「あんなに小さかったあの子がねぇ…」というのも、その相手の成長を認めているようで固定概念に囚われている証拠だそうです。馴染み深い存在であるからこそ、その変化に気づくことができない。それが落とし穴であるのです。
「馴染み深さの落とし穴」はわたしたちの信仰にもあると思います。聖書を開き神の言葉を聞こうと、信仰に燃えていても、馴染み深い言葉に耳を傾けすぎてしまうことが多々あります。わたしも説教を考える時、馴染み深い箇所の方が断然筆が進みます。そして馴染みの浅い箇所になると筆が重たくなります。こうであってはダメだなぁとは思うのですが、どうしてもそうなってしまうのです。そうした聖書の言葉への偏りは、信仰の成長を阻害する最大の障壁のひとつであります。偏見を持ったことによりナザレの人々はイエスにつまずいたとある通りです。この状況に対して主イエスは「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない。」と言います。つまり「自分の故郷、自分の家族の中でこそ、尊ばれない」ということです。その他の場所や人々からどれだけ尊敬を集めていても、いざ故郷や家族のもとに行けば、過去の印象や立場から来る偏見によって本当の姿、価値に気づかなくなるのです。偏見は、わたしたちの霊的な洞察力を曇らせ、神の働きと言葉を認識する能力を制限するわけです。
 世の中にあるカルト教団はそうした認識を曇らせ、本当に神の言葉なのか人間が自分勝手に作った言葉なのかの判断が出来なくさせます。そうした方が悩むこともなくなるからです。彼らの使う言葉はわたしたちに「馴染み深い」ものです。家庭やお金・健康を語り、その言葉の馴染み深さに共感してしまいます。しかし聖書はそんな人間の心に甘い言葉ばかりを投げかけません。やはり読んでいれば耳が痛くなるようなことが書かれています。また自分を批判しているのではないかと思うようなことも書かれています。しかしその言葉にも耳と心を傾けなければ、聖書は甘い蜜の滴る書物になってしまいます。
 神の言葉は人間の理解や先入観を超越するものです。イエスがなされてきた説教と奇跡は、人々の想像をはるかに越えたものでありました。固定概念を壊すようなことです。だからこそ人々は驚き、この方こそわたしたちの救い主だと言ったのです。その驚きと気づきが信仰へとなり、今のわたしたちの教会の原型を作り上げたのです。だからこそわたしたちも自分たちの「馴染み深さの落とし穴」から抜け出すことが大切なのではないかと思います。聖書全体にある「馴染みの深い」言葉も「馴染みの浅い」言葉も受け取り、神がわたしたちに何を伝えたいのかを真剣に考えていきたいと思うのです。
 わたしたちの身の回りには「馴染み深い」ものがたくさんあります。教会も「馴染み深い」教会に魅力を感じることが沢山あります。また「クリスマス」は、最も馴染み深いものです。待降節のこの時こそ、神は何故主イエスをこの世に与えようとされたのかを思いめぐらせたいと思うのです。なぜわたしたちはクリスマスを待ち望むのか。それはわたしたちひとりひとりが礼拝に来ることと同義であるとも思うのです。クリスマスも日曜日も待っていたら必ず来ます。馴染み深いから礼拝に行く、馴染み深いからクリスマスをお祝いするという状況のままでは、思考を停止してしまい、自分の固定概念に囚われてしまいます。まさしく疑うことなく馴染み深い「天動説」を信じた人々や、主イエスを「大工の子」と言ったナザレの人々のように。わたしたちは決してそうではないと私は信じたいと思います。なぜならこの場にわたしたちがいること自体奇跡のようなものです。神の人知を超えた働き、御業によってこの場に集められたに間違いはないはずです。毎週日曜日にここに来て、PCの前に来て礼拝を共に守ることは、わたしたちの馴染み深さからくるのではなく、何よりも神の御業があるからです。クリスマスの本当の意味を味わうことができるのも神の御業があるからです。この驚くべき事を前にするならば、わたしたちの目は神によって開かれ、信仰を熱く燃やすことができると思うのです。自分の知識や経験から来ることを絶対視せず、相手を測る道具にせず、その中にある神と主イエス・キリストの言葉に気づけるよう心を向けていきたいと思います。

関連記事

PAGE TOP