深谷教会待降節第1主日礼拝2024年12月1日
司会:齋藤綾子姉
聖書:イザヤ書2章1~5節
説教:「久しく待ちにし」
佐藤嘉哉牧師
賛美歌:21-231
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「久しく待ちにし」 イザヤ書2章1~5節 佐藤嘉哉牧師
今日からついにクリスマスを待ち望むアドベントです。教会入口にはクリスマスツリー、礼拝堂の前にクランツ、そして赤と緑の葉がきれいなポインセチア。12月にも入り忙しさの中に喜びの時が待っている。そわそわしつつ久しぶりのこの時を楽しく過ごしたいと思います。それにしても時の流れは早いですね。もう1か月後には年末、そして2025年に入ります。みなさんと初めてお会いしたのも11月末でしたから、1年が経ったわけです。この1年間で起きた事を振り返る時、喜びがありましたが、悲しい出来事もたくさんありました。この2024年最後の月にその出来事を思いめぐらしながら、聖書において書かれている平和のことを通して希望を見出したいと思います。主イエス・キリストの降誕は私たちの希望であり、平和の実現、神の約束の成就です。主イエス・キリストが生まれるまでの出来事も神の導きと備えがあったことを知り、これが偶然ではなく神の計画のうちにあるのだという事を感じて歩むときが、このアドベントなのです。今日はその神が救い主をこの地上にお与えになることを約束した場面である、イザヤ書2章1~5節を読み解いていきましょう。
まずこのイザヤ書という書物は、三大預言者と呼ばれる預言者の内のひとりイザヤが、神の言葉を預かり伝えた内容が書かれています。しかしこのイザヤは3人いたとされています。66章あるのですが、3人のイザヤと呼ばれた預言者がそれぞれの時代に告げた言葉だそうです。今日の2章はその3人のイザヤの内の第一イザヤと呼ばれる預言者が告げた言葉です。3人のイザヤにはそれぞれ内容に特徴があり、そのひとつひとつを伝えるともう1時間で終わる話ではなくなるので割愛しますが、今日の所はそういった背景があるということを知っていただけたらと思います。
さて、その第一イザヤが告げたとされる2章。この時代のイスラエルは困難な状況にありました。紀元前701年頃に北の大国アッシリアが南下してきたために、南ユダ王国の王は動揺しました。アハズというダビデとソロモンの子孫が王に就いていた時には、アッシリアに対抗して北イスラエル王国とシリア王国が同盟し、その同盟に加わるように両国から強要され、それに対抗してアハズ王はアッシリアと同盟を結ぼうとします。また、ヒゼキヤという王の時には、エジプトと同盟を結び、逆にアッシリアに対抗しようとしました。そのような時、イザヤは「わたしを頼りなさい」という神の言葉を用いて忠告しました。しかし、王達は耳を貸さず、そのせいでさらなる危機に陥っていたのです。そしてイザヤは自身の立場も危うくなります。そのような状況の中でイザヤは神の言葉を伝えていったのでした。今日の聖書箇所の背景はこのような状況でありました。1節で「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。」とありますが、これから書かれている言葉は何も根拠のないものではなく、正真正銘神の言葉を受け取った正統なる予言者の言葉だという説明をしています。こうした「誰誰の子」という記述は聖書全体で多く見られます。最も有名なのはマタイ福音書1章1節から続く主イエス・キリストの系図です。当時は当然マイナンバーカードや身分証明書はありません。自分や人の身分や立場を証明するにはこうして家系図を伝える必要があるのです。言い換えれば水戸黄門の紋所です。今から告げる言葉は空想や妄想ではなく、しっかりとした神の言葉であるという事を1節で伝えているわけです。こうした前置きがあり根拠を持たせたうえで2節から神の言葉が語られます。「終わりの日に次のことが起こる。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべての国はこれに流れて…」来るであろうと。終わりの日とは「いつか来る日」という意味であり、「主の家の山」とはエルサレムであると考えられています。新共同訳聖書ではもっとわかりやすく「主の神殿の山」と言っています。エルサレムはどの国よりも堅く立ち、エルサレムが世界の中心になると告げています。今エルサレムは侵略者によって攻め入られ、国家存亡の危機に陥っている中でのこの言葉は大きな慰めになったのではないかと思います。さらには3節で「多くの民」がイスラエルの神を讃えるであろうと。「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道を歩もう」と言うであろうと告げるのです。なぜ彼らはそういうのかというと、「律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである」と説明しています。神の恵み・救いはこのエルサレムから出る。だから私たちはそこに集おうではないかと。この光景はわたしたちも見たいと思うほどです。平和とはこういう事なのではないかとさえ思います。イスラエルの平和、神の平和は、すべての民が「ヤコブの神の家へ行こう」と声を上げることであるという事がわかります。
いまだかつて多くの民がイスラエルのことを思い、願ったことで、神にかなえられなかったことはありませんでした。すべてと言っていいほどの要求が叶えられてきたのです。神は最初にイスラエルの民を先導する王は必要ないと思っていましたが、多くの民が求めたので王を立てたということもありました。わたしたちの救い主を与えてくださいと必死に願った人々の祈りによって神は、主イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。神の言葉と人々の神へ向ける姿勢が合致した時、本当の平和が実現するのです。
4節の彼とは誰のことを指すかは、もう皆さんわかりますよね。主イエス・キリストのことです。彼は神の言葉を身にまとった存在ですから、3節最後の内容にもあっていると思います。神はこの時まだ主イエス・キリストがどのようにしてこの世に来られるかは具体的には伝えていませんが、救い主という存在が人々を平和へと導くことを伝えているのです。全能の神に全てを信頼するならば、人は争う事をしなくなるでしょう。来るクリスマスこそ、わたしたちの真の平和の象徴がお生まれになる。久しく待っていたこの平和の時。争うことをやめ、ただひたすら主の光を歩もうと手を取り合う。これが平和を実現することにつながるのではないかと思います。
「平和向上委員会」と題して先月のもより婦人研修会で説教しました。平和を維持していくことは難しく、さらに向上していくことはさらに難しい事です。イザヤ書が書かれてから2700年以上も経っているのに、方法や手段は違えど平和ではない状況がずっと続いています。人が支配している限り聖書にある平和は実現しないのでしょう。しかし先ほども言いましたが、神はわたしたちの平和を求める祈りと願いを必ず聞き届けて下さいます。だからこのアドベントの時、平和を共に追い求めたいと思うのです。かつて来られ、今来られ、いつか来られる主イエス・キリストの降誕こそ、神が与えられる平和であるのです。ただ楽しい嬉しいクリスマスで終わるのではなく、本当の意味を共に味わっていきたい。その準備の時がこのアドベントであるのです。久しく待っている真の平和の実現を神がなさる時、わたしたちも気づき「主の光に歩もう」と声を上げていくことができるようにしていきたいと思います。