「残り物には救いがある」ミカ書2:12~13

深谷教会降誕前第5主日礼拝(収穫感謝・謝恩日)2024年11月24日
司会:渡辺清美姉
聖書:ミカ書2章12~13節
説教:「残り物には救いがある」
   佐藤嘉哉牧師
賛美歌:21-386
奏楽:野田治三郎兄

       説教第:「残り物には救いがある」 ミカ書2章12~13節   佐藤嘉哉牧師

 残り物には福がある。このことわざは数多ある日本のことわざの中でも特に有名かと思います。「誰からも選ばれずに残ってしまった物が、思いもよらない良い物になる」という意味です。何のひねりもない言葉通りの内容ですが、その単純さの中に日頃のあ!という気づきと楽しさがあると思います。先日まで行われていたミニバザー。たくさんの目玉商品がありましたね。コーヒーメーカーやフェルトツリー。教会員の手作り小物。またおもちゃまで。見ていて楽しくなります。わたしもいくつか買ったのですが、準備の時にはあることに気づかなかった商品が目に付くと、不思議なつながりを感じるんです。わたしはコーヒーが好きなのですが、外でも挽きたてコーヒーが飲めるという商品を見つけた時は、こんな良い物が売れ残っていたなんて!買わなきゃ損だ!と思うほどでした。そして先日のお休みの日ですが、外でチーズの燻製を作りながら買った物でコーヒーを飲んだんです。美味しさといえば変わりはありませんが、とても特別な感じがしました。売れ残っていた物が自分にとってとても良い物であったという良い体験をしました。
 そもそもこの「残り物には福がある」ということわざ。これは「人と競って先を争うのを戒める時や、順番が後になった人を慰める時、自らのげん直しに遣われることが多い。我先にと人を押しのけるよりも、人と争わず遠慮深い人にこそ幸福がある」という考えが由来です。誰が言い出したのかはわかりませんが、もったいないという言葉もありますから、最後まで物を大切にしようという思いがあるのかもしれません。しかし最近は列の最後に立つ人まで平等に物が与えられる時代になりました。最後まで美味しさ変わらず…最後の一粒まで…。残り物にあまり魅力を感じなくなって来たように感じます。
 世の中には1番先というものに魅力を感じることがたくさんあります。スポーツで言えばオリンピックや世界大会で金メダルが一番価値ある事と考えられています。アスリートがそのオリンピックという大舞台に立つこと自体素晴らしく、大きな成果であると思うのですが、さらにその先の金メダルを取るという目標が当たり前にあるわけです。金メダルが取れなかった選手は「応援してくれたのに結果が残せなくて申し訳ない」とコメントするのも、その1番を目ざしているがゆえに出てくる言葉だと思います。一番上に最も価値があり、それ以外は残りの残念な物であると考えられるようになりました。
 本日の聖書箇所 ミカ書2章12~13節には、「残れる者」という言葉があります。新共同訳聖書では「残りの者」と訳されています。残れる者はみなさん今まで聞いたことはありますか?またどんな印象を持つでしょうか。
 私個人の話ですが、わたしは小学生の頃算数が本当に苦手で、授業に全くついていけない子でした。すると算数だけを教える厳しい非常勤の先生が、算数が特にできない児童を放課後に集めて、居残り勉強をさせるというものに出るよう言われました。廊下にわざわざおり名前を呼ぶんですね。それがもう嫌で嫌で、その先生から逃げるように帰っていたことを今でも覚えています。その居残り勉強会に参加すること自体がもう「勉強ができない、算数ができない子」と言われている。とにかくその空間が嫌で仕方がなかったのです。残るということがそういった罰に繋がるのも問題だなぁと思います。
 ではこのミカ書に書かれている「イスラエルの残れる者」は、神の救いから漏れた、残された人々のことを指しているのでしょうか。神の愛と恵みを受けることのできなかった残念な人々の事を指しているのでしょうか。実はその逆であるのです。「残れる者」は「レムナント」という言葉の日本語訳で、「イスラエル民族の過酷な試練の中にあっても、真の信仰を貫いた少数の人たちのこと」を言っています。「不信に流れる民の中にあっても、神の民の霊的な核として、新しい神の民を形成する者となる」人々が「残れる者・レムナント」であると。なんだか不思議な気がします。逆じゃない?と。そうか、これが旧約聖書と新約聖書での人と神の関わり方の違いなのかもしれない、と思いました。「残れる者・レムナント」を新約聖書的に言うとすれば、それは「選ばれた人」なのかもしれないな、と。
 バビロン捕囚というイスラエルの民にとってとても辛い出来事、迫害の歴史の中で、イスラエルの民は試練を何度も経験していくと、やはり信仰を捨ててしまったり、自分に都合の良いように神の言葉を理解したり、逆に自分より弱い立場にある人を迫害してしまったりする人が大勢いました。イザヤ書に登場する預言者イザヤも、そうした神の言葉に背き別の神の言葉を信じた偽預言者たちと戦った残りの者でありました。つまり神から心が離れた大勢のイスラエルの民から残った「神に召しだされた人」がこの「レムナント」であるのです。
 私たちの感覚からすると、この「残れる者」は損をしているような、そんな消極的な印象を持つこともあるでしょう。それは近代的な話だけではありません。新約聖書においてイエスの弟子たちが「この中で誰が一番偉いか」と議論し合っていたことが書かれています。またヤコブとヨハネがイエスに「栄光をお受けになる時、わたしどものひとりを右に、もうひとりを左に座らせてほしい」と願います。それを聞いた弟子たちは腹を立てたとも書いています。どの時代でも自分が一番偉くなりたいという気持ちがあるのだな…。と感じます。そしてこの弟子たちも「レムナント」の代表みたいな立場であるはずなのに、「残れる者」ではない大勢に自らなっているではないかと感じるのです。イエスの「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」という御言葉も「残れる者・レムナント」としての姿勢を伝えているのではないかと思うのです。モーセや預言者イザヤ・エレミヤ・エゼキエルら残れる者の代表者はそうして神と人とに仕えてきました。自らを捨て、神の為に残れる者としての務めを全うしたのです。ミカ書はその散らされていた「残れる者を集める。」と預言しています。残れる者を皆集め、主イエスキリストの救いへと導くことを伝えているのです。「残り物には福がある」「残れる者には救いがある」。わたしたちは神による選びによって、大勢の者から「残りの者」に召しだされたことで洗礼を受けました。そして救いを与ることができるのです。
 世の中には主イエスの選びを受けていても、いまだに信じることのできない、気づくことのない人々があまりにも多いです。イエスキリストの誕生から十字架での死と復活によって、すべての人々はイスラエルの民、神の民となったのに。そのことに気づいたわたしたちは、まぎれもなく「残れる者」であります。そしてこのミカ書に書かれている通り、散らされていたのに集められ、あなたの御名を讃美する群れへとならせてくださいました。まさにこの預言が実現しています。「残れる者に救いがある」ということはやはり少数のままです。しかし神の言葉にひとりひとり気づき、聞き従って生きていくならば、それはいずれ大きな群れへとなっていくと思います。わたしたちはその群れの一員として、手を取り合いながら世界へと歩んでいくべきだと思うのです。その先頭を主イエスは歩み、道を示してくださいます。祈りつつこれからの1週間を歩んでいきましょう。

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