「言葉を預かる」申命記18:15~22

深谷教会降誕前第6主日礼拝2024年11月17日
司会:西岡義治兄
聖書:申命記18章15~22節
説教:「言葉を預かる」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-467
奏楽:野田周平兄

       説教題:「言葉を預かる」 申命記18章15~22節   佐藤嘉哉牧師

 
 わたしが高校生の頃の話です。高校では聖書を学ぶ時がありまして、牧師が順番に教室を回り、週2回受けました。わたしはこの時がとても楽しく心地よく、牧師の語られることに心躍らせていました。そんなある日、その牧師がテストをすると言い、プリントを配布しました。そのテストで最初の問いは今でも忘れません。「イエス・キリストが生まれたのはどこ?」その問いの答えは四択で、馬小屋・王宮・生まれた場所は不明・実際には生まれていない、とありました。当然「馬小屋」だと私は回答しました。後日その解答の結果が配られたのですが、その結果を聞いてわたしは驚きました。当然答えは馬小屋ですけど、なんと60%以上が別の答えを選んでいたそうです。特に多かったのが「生まれた場所は不明」であったと…。「正しい答えは馬小屋でした!」と牧師が言うと、「えー!?」とクラス中が声を上げました。「イエス・キリストって神の子なんですよね?マジで?」という声さえあるくらいです。わたしは耳を疑いました。新約聖書の最初に書いてあるじゃないかあ!なぜそんな知っていて当たり前のことを知らないんだ!?と叫びたくなりました。しかしですね、当時の私、よくよく考えると、自分の中にあるキリスト教のそうした常識は、キリスト教に全く触れてこなかった人には知らないことなのだということだと気づきます。皇帝アウグストによる人口調査の命令がなされたころ。身重のマリアと夫ヨセフはその調査のためガリラヤのナザレからベツレヘムへ行き、その旅先でイエス・キリストがお生まれになった。その時旅人が大勢いたため宿泊する場所がなく、仕方なく馬小屋での出産となった。その後、天使のお告げを受けた羊飼いや、東の国から星に導かれて来た占星術の学者たちが主イエスの元に訪れる…というクリスマスの出来事は、わたしたちが知っていて当然のものかもしれません。附属の幼稚園や保育園、児童施設がある場合、そこでページェントをクリスマスの時期に行うことも多いでしょう。そこに通う子どもたちが小さな体をいっぱい動かして、主イエス・キリストの誕生の出来事を伝えます。わたしたちが身近に思っていることが、遠い存在であるように思う人もいます。さらに言えば、ページェントはお遊戯発表会と考えている人もいるほどです。知っている人と知らない人との差があまりにも大きいと、知る人は大きな躓きとなるわけです。
 旧約聖書はわたしたちにとって身近な存在であるように思えて、実はあまり知っていることの少ない存在であるかもしれません。時に「旧約の神は私の知る神とは別人のようだ」という声を聴きます。確かにそうです。新約の神は慈愛に満ちた神とわたしたちは思っていますが、旧約の神は「怒りの神、嫉む神」として人々を罰する厳しさがあります。それを目の当たりにすると、先ほどの声が上がります。そして旧約聖書を読む気が起こらなくなります。しかし聖書に出てくる神は別人などではなく、新約も旧約も同じ神であるのですから、それら2つに渡る神の言葉は一貫しています。わたしたちがたとえ「別の神のように思う」という感情を抱いたとしても、これは変えようのない事実ですし、その神が選んだユダヤ教の人々はその怒りと嫉妬する神を今もなお信仰しています。わたしたちはこの事実を前にどう考え、そのさらに先にある主イエス・キリストのことをどう考えるか、問い直さなければならないと思います。
 本日の聖書箇所である申命記は、十戒を授かったモーセが語った言葉です。モーセ五書のひとつで、ユダヤ人の出発点と到達点を語っています。聖書を学ぶ会で「十戒」と「エクソダス」という出エジプトの映画を3週に渡って鑑賞しました。その映画の印象により、モーセは先導者・リーダーであると思うかもしれません。しかしモーセはリーダーという面はあるかもしれませんが、正式には預言者であります。本日の聖書箇所でも自らそう言っています。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起こされるであろう。」と。預言者とは「神の言葉を預かる者」という意味であり、決して予知を語る者のことではありません。共に未来のことを伝えていますが、予知はいつ来るかわからない不明確な未来のことを語ります。一方預かる方はというと、神が将来必ず実現する・実行することを語ります。根本的に違うのです。出エジプト記において、神がエジプトにもたらした十の災いも、モーセが神から預かった言葉通りのことが起きました。神の計画は必ず実現します。神はその預言者をあなたのうちから、あなたの同胞のうちから起こすと約束しているのです。そのモーセのような預言者とは誰の事でしょうか。もうみなさんその答えがわかっているでしょう。そう、主イエス・キリストです。主イエス・キリストは人々を導く王であり、わたしたちを神のみもとへと救い出して下さる救い主であり、神の言葉を預かった預言者です。
 なぜ預言者が必要だったのでしょう。神の言葉を人々が直接受け取る方法が手っ取り早いと思うのですが、そうはせず、わざわざ一人の人を起こす必要がなぜあったのか。それは十戒が与えられた時、人々は自分を救った神に背いたことで怒りを受けます。その声があまりにも恐ろしかったため、「わたしが死ぬことのないように、主の声を直接聞こえないようにしてほしい」とモーセに願ったからです。この構造は今の私たちにも共通しています。祈りの最後に「この祈りを主イエス・キリストを通してお捧げします。アーメン」といいますよね。神と主イエスとの会話であるはずの祈りでも、必ず主イエスが間にいるわけです。つまり預言者を別の言葉に言い換えるとするならば、仲介者だと言えるのではないでしょうか。新約聖書でも主イエス・キリストは人と神との仲介者だと書かれています。つまり神との関係を正常に保っていくには、モーセや主イエス・キリストのような預言者が必要不可欠であるのです。
 時に人はその神の言葉を預かる者の存在を忘れてしまいます。本日の聖書箇所にも「預言者の語る言葉に聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰する」とある通りです。そしてその預言者ですら、神の言葉によらないで私利私欲に走る状況。まさしくイエス・キリストが生まれ、生きた時代のエルサレムの状況ですし、今の私たちの時代にも通じます。昔も今も人は変わらないのだな…と思います。神の存在を信じることができず、自分たちはその神と主イエス・キリストによって救われていると信じることができない人々がこの世を支配していては、いくら私たちが神の言葉を伝えても無駄であると思うかもしれません。ページェントも神の言葉を伝えているということを気づく人がどれくらいいるでしょうか。そう思うと、先が暗く重たい気持ちになってきます。
 しかし主イエスはそんなよこしまな時代にお生まれになり、たとえ神の言葉を自分勝手に利用していた人から憎まれようとも、周りから理解されなくても、諦めることなく預かった神の言葉を人々に伝え続けました。決してめげることなく。神の言葉を知っている人よりも、知らないでいる人々に伝えようと懸命に歩まれました。そうです。神の言葉を預かった人は、その言葉を知らない人に語るため立てられるのです。決して内側に籠ることなく、外へ外へと心を向けています。その神の言葉を私たちはただ受け取るだけで良いでしょうか。そうあってはいけません。内側に籠っていては、外側にいるまだ神の言葉と恵みを知らない人に伝えることなどできないはずです。私たちの使命は、自分が頂いた恵みを分かち合う事のはずです。私たちも、神からの言葉を預かる者としてこの世へと送られているのですから、臆することなく堂々とその恵みを人々に分け与えていくべきだと思います。その相手がたとえ神の言葉を受け入れるに至っていなく、また信じることのできない人であっても、神にその言葉を頂いて関わって行くことこそ、わたしたちの与えられた使命であります。この関わりこそ真の平和へとつながって行くこと、神の国の実現に近づくと信じていくべきです。神の意思に従い、また神の言葉と共にこれからの一週間を歩んでいきましょう。

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