「アブラム、君に決めた!」創世記13:1~18

深谷教会降誕前第7主日礼拝2024年11月10日
司会:悦見映兄
頌栄:28番
聖書:創世記13章1~18節
説教:「アブラム、君に決めた!」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-184
奏楽:小野千恵子姉

説教題:「アブラム、君に決めた!」 創世記13章1~13節   佐藤嘉哉牧師

 ポケットモンスターは皆さん知っていますか?任天堂というテレビゲームやカードゲームを作り販売している最大手の会社から発売された大人気ゲームです。この世界にはいない、不思議な姿をした生き物「モンスター」たちがいる世界で、そのモンスターをモンスターボールに捕まえて戦わせ、成長させていくという内容が目的のゲームで、アニメにもなっています。主人公とモンスターたちの友情と、沢山の戦いの中で共に成長していく姿が描かれ、日本だけでなく海外でも人気です。モンスターは常に外にいるわけではなく、携帯することのできるボールに入れられ、戦いの時に主人公から「〇〇、君に決めた!」と言われて飛び出す…。この場面はゲームやアニメの定番です。大抵この流れに沿って物語りが進むのですが、ではどうやってそのモンスターを捕まえるのかというと、野生のモンスターと戦い、瀕死に近い状態にさせてからボールを投げて捕獲するのです。結構ギリギリの線を行くので、時に誤って死なせてしまうこともあります。野生のモンスターは狂暴であり、人をも襲う存在ですし、種類が多くなっても知能がそこまで高いとは言えないので、まずは体を痛めつけて服従させるという状況でしょうか。自分のモンスターを強くして、また強いモンスターと戦わせて捕獲していく…という流れになるのですが、昨今の教育方針とはそぐわない点があるためか、モンスターを痛めつけることなく捕獲する方法が採用されつつあります。正直そんな言葉が通じる相手でもないのに交渉するのか?というツッコミもあり、そこまで配慮する必要はないのではないか…という議論が巻き起こっています。
 この流れを見ていると、神と人との主従関係にも言えることなのではないかと思います。旧約聖書においては、神が人を解らせるために大きな災いを与える場面がたびたび出てきます。本日の聖書箇所の前にある失楽園や大洪水も、人々が神を忘れ、背いた結果でありますし、人が神の頂に至ろうとしたバベルの塔は打ち砕かれました。人々が神に背き忘れるたびに、神は人々に対して罰を与える。コテンパンに打ち砕かれて人は、神に心を向けるのです。これが旧約聖書における神と人との主従関係と捉えています。
 さて、そうして人々は神に創られてから幾度も罪を重ねて、その度に罰を受けてきましたが、その罰を受けずに来た正しい人ノアの子孫であるアブラムが今日の主人公です。彼が75歳の時に神が来て、「わたしが示す地へ行きなさい。あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、子どもを地に溢れさせよう」と約束します。その言葉を聞いたアブラムは妻サライと甥のロトと一緒にその地へと出立します。ネゲブに住んでいた時に、そのネゲブで飢饉が起こり、その飢饉から逃れるためにエジプトへ向かいます。妻のサライはとても美しい女性であったため、妻を奪うために私が殺されてしまうかもしれないから、アブラムの妹と噓を言うようにします。するとその結果ファラオが彼女を気に入り召し入れることとなりました。これは驚くことです。自分の妻を守るためならどんなことをもするでしょうが、そうしなかったアブラムの姿に言葉も出ません。結果神はそのことに対しての罰なのか何なのかは分かりませんが、激しい疫病をファラオの家に下すこととなり、貢物すべてを持ってエジプトから出ていけと命じます。これが本日の聖書箇所までの、アブラムの歩みです。
 アブラムたちはファラオから得た貢物であろう家畜と金銀に非常に富んでいた、という説明から今日の聖書箇所は始まります。その財産を携えてべテルへと着くのですが、その場所はその財産を置くには狭すぎるために住むことができず、アブラムの家畜の牧者と甥のロトの家畜の牧者とが争い合うという出来事が起きます。これを解決するには別れて生活するしかありませんでした。長く子どもに恵まれないアブラムにとって、甥のロトはわが子の様に思っていたことでしょうから、この争いと別れは非常に辛い出来事だったのではないかと思います。実際アブラムの妻を妹と偽るという行為がなければ、エジプトから追い出されることも、こうした親戚同士の争いが起きることもなかったでしょう。族長としてこの事態を招いたことへの罪悪感からなのか、それとも優柔不断な性格なのかはわかりませんが、ロトが選ぶ道と反対の道を私は行きましょうと提案します。ロトはヨルダンの低地が魅力的に見えたので、そこに住むことにしました。その場所こそ「ソドム」です。甘い蜜には毒がある、きれいな花にはとげがある。そこの土地はとても魅力的に見えても、住む人々の心はすさんでいて、神に対してはなはだしい罪人がたくさん住んでいたと聖書には書いています。
 一方でアブラムはロトと別の道を歩み始めます。すると神がアブラムを祝福し、「今あなたのいるところから四方を見なさい。そこにあなたの子孫を溢れさせます」と約束します。アブラム自らが選んで得た土地ではなく、残りの場所・与えられた地が神に祝福されたのです。自ら選んで罪の地に移ったロト。出発点からして両者には大きな違いがあったわけです。
 わたしはこのアブラムが信仰の父と呼ばれ、尊敬されるという状況を疑問に思っていますし、なんだか好きになれないのです。なぜならあまりにも人間味がないといいますか、悩むことがないなぁという印象があるからです。自分の命を守るために妻を妹と偽ってエジプトに入ったり、「あんたがそっちに行くならわたしはあっちに行く」と呆気なく言ったり、後にあることですが自分の子どもであるイサクを主に捧げようとしたり…。神から言われ、与えられたことを悩みもせず淡々と行っていく姿が好きになれないのです。
 しかしそう思う一方で、もしかしたらこのアブラムは聖書では語られない大きな悩みを抱えて生きていたのではないかとも思うのです。それは自分の子どもが与えられないという悩みでした。夫婦の間に子どもが与えられることは当時当たり前のことで、与えられないのは神の祝福から外れた罪人だからだとされてきました。だからアブラムは神の前で従順にならざるを得なかったのかもしれません。自分の民を地に溢れさせるという言葉も彼にとっては何の慰めにならなかったでしょう。子どもが与えられない。この事実が75歳を超える彼にとって大きな枷となっていたのではないかと想像します。さらにわが子の様に思っていたロトと別れることになったとしても、それが神の意志ならと受け入れることしかできなかったのではないかと思います。アブラムにとって死活問題であり、それがことごとく打ちのめされる。再起不能になるほどの状況へと追い込まれてもなお、神の祝福を願い続けたわけです。そしてアブラムは女の召使との間に子どもをもうけてしまい、アブラムとサライ、女召使のハガルの間に亀裂が生まれるという、昼ドラでも聞かないようなドロドロとした三角関係ができてしまいます。旧約聖書はイスラエルの民の歴史書という一面もあるため、人の心や思いには言及があまりされません。そのためアブラムがこの時どう思っていたかは分かりませんし、想像の域を超えることはできません。しかしアブラムでなくともこの状況に悩まない人はいないはずです。誰もが悩み苦しむ状況にアブラムも当然苦しんでいたでしょう。神の試練がアブラムには常に注がれており、その試練の中でも神から心を離すことなく歩み続けたからこそ、彼は信仰の父と呼ばれるのだろうと思うのです。
 最終的にアブラムの願いである、正妻のサライとの間に子どもイサクが生まれることとなります。自分では無理だと思っていたことであっても、神がその人知をはるかに越えた力によって叶えられることを指しています。そうであるならば主イエス・キリストの誕生も神の人知を超えた力によって行われたことでしょう。そして神自身が人を愛するがゆえにわが子を犠牲にするという、アブラムと同じ立場になられたことも見逃してはならない事実であるのです。その神によってわたしたちは召されているのです。打ちのめされ悩みの内を歩むアブラムを愛し「アブラム、君に決めた!あなたの子孫を地上に溢れさせる」と祝福する神の姿。そしてその子孫である主イエス・キリストによってわたしたちもその子孫に加えられているのです。神の大いなる計画を前に驚くばかりですが、神の召しを心に留めていきたいと思います。

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