「α・ω」イザヤ書44:6~17

深谷教会降誕前第8主日礼拝2024年11月3日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:イザヤ書44章6~17節
説教:「α・ω」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-507
奏楽:野田治三郎兄

 説教題:「α・ω」 イザヤ書44章6~17節   佐藤嘉哉牧師
            
 わたしたちの世界には必ず始まりがあります。宇宙の始まりはビッグバンという大爆発によってつくられた、というのが天文学的にも一般的にも知られています。また生命の始まりも人体学、人類学においては、猿からの進化であるという「進化論」が一般的に受け入れられています。長年この「ビッグバン理論」と「進化論」はユダヤ教・キリスト教における天地創造の内容と異なるという点で対立していました。特にローマがキリスト教を国教と定めた西暦380から約1000年の間、「ビッグバン理論」に通ずる「地動説」や「進化論」はキリスト教の教えと異なる、つまり異端の教えであるとされ、それらを提唱する人々を裁判にかけたり、処刑したりしていました。ガリレオ・ガリレイはその中でも有名な人物でしょう。また「進化論」を提唱したダーウィンもキリスト教とは真っ向から対立していました。今でこそその立場は逆となり、「ビッグバン理論と地動説」、「進化論」が人類の始まりであるとされ、一方でキリスト教の人類の始まりとする「天地創造」はひとつの宗教の教えであると認識されるようになりました。そして時にわたしはキリスト教に触れたことのない人から、「今でもクリスチャンはこの世界は神によって創られたということを信じているのか」と質問されます。当然ながら「そうであると信じている」と答えると「進化論とかがあるのに?」と返される。社会から教わる人類の歴史と、ユダヤ教から始まる人類の歴史には大きな矛盾があるわけです。世界と人類の起源は今でも様々な見解がありますが、神が何もないところに突然創ったという天地創造はあまりにも非現実的だと多くの人たちは言います。
 わたしたちの世界には必ず終わりがあります。宇宙は無限のようで実は終わりがあるという理論が取りざたされていますし、この地球や現代文明の終わりも昨今人々の注目を集めます。生命の終わりがわたしたちの身の回りで最も身近なものであると思います。人は死ぬとどうなるのか、この世界が終わる時とはどんなことが起きるのかは、まだ来たことのない未来の話ですから、わたしたちは知る由もありません。しかしなぜか人々はその答えを宗教に求めてしまいます。最後の時が自分の望むものでないと思った時、人は神に対して恨むこともあります。また不条理な状況を前にしたとき、神も仏もいないのかと言います。神の創造からこの世界と人類の歴史は始まったということを「ばかげている、現実的ではない」と言っているのに、死と終わりの答えや疑問を「神と宗教」に求めるのはどうにもおかしな話ですし、それこそ矛盾だし自分の都合ばかりだなぁと思います。しかし日本においてはそうした考えを持つ人々が多いのは事実ですし、天地創造や主イエス・キリストの降誕を伝えてもすぐに受け入れられないのです。
 日本だけではなくこの世界中においても、人類の始まりと生命の終わりは永遠のテーマであると思います。だからこそ聖書はその一番最初に、神がこの地上を創造し、そして人類を創造したというテーマに触れています。旧約聖書は、人類が永遠に神と良い関係を続けて行くために、神から与えられた契約を守り続けることが書かれています。新約聖書はその始まりの時から既に神と共におられ、その神の知恵と言葉が受肉した主イエス・キリストがお生まれになったというところから始まり、この世界が主イエス・キリストの再臨によって終わりの時が来て主イエスの支配する世界の内を生きることができるようになる未来が書かれています。聖書は始まりと終わりが書かれており、神と主イエス・キリストがそれを支配する存在だと伝えているわけです。アルファは英語でいえばA、オメガはZです。最初と最後、始まりと終わりの両方を支配する絶対的な存在が示されています。
 それにしても神は始まりと終わり、アルファとオメガであると言っているのですが、その間はどうしているのだろう?という疑問を抱きます。本日の説教題は「α・ω」です。アルファとオメガの間に「・」がありますけれど、これって何でしょうか。始まりと終わりとの間にはたくさんの出来事があります。喜びもあれば悲しみもあります。ものすごい情報がたくさんあるはずです。しかし神は始まりアルファであり、終わりオメガであると言っているだけで、その間は何をしているのでしょう。人の関心というのはそうして、始まりと終わりばかりに注目されます。「終わり良ければ総て良し」という言葉でまとめられることだってあるほどです。使徒信条でも主イエスが「おとめマリアから生まれ」たと言った途端に「ポンテ・オ・ピラトより苦しみをうけられ、十字架につけられる」というジェットコースターの様な展開の速さで読み上げられます。主イエス・キリストが生まれた時から十字架にかかり死なれるまでの間には、沢山の奇跡や癒し、説教があったはずです。しかしそんなことはお構いなし。わたしたちも時に、どのようにこの信仰へと導かれたかという「信仰の始まり」を知りたがりますが、その人が信仰を告白して後今までの間にどんなことがあったかは知る機会があまりないと思います。主イエス・キリストの誕生は新約聖書の始まりの出来事として書かれていますが、聖書全体、つまり神の壮大な計画の内のひとつの出来事と考えることもできます。しかしながらわたしたちの関心が始まりと終わりばかりに目がいってしまい、神の壮大な計画に気づくことが難しくなってしまうのです。
 主イエス・キリストが生まれてから十字架にかかるまでの出来事はここで語れば切りがありませんが、その間のすべての出来事に神の存在を感じない瞬間はなかったはずです。常に神の力は働いていましたし、主イエス・キリストと共に神はおられました。そして神の力によって人類の想像や常識をはるかに越える出来事をいくつも行ってきました。つまり神と主イエス・キリストを知るという事は、始まりから終わりまで。アルファとオメガの間にあることがらも全て神が支配しているということを知るということであり、それを信じるということになるのです。
 イザヤ書44章にはそうした神の支配に生きず、ただ別の神を崇拝するイスラエルの民の姿が見えます。彼らは自分に都合の良いように神を創りますが、当然うまくいかないことが起こると「あなたはわが神だ、わたしを救え」と祈ります。まさしく冒頭に述べた信仰を持たない人たちの言葉そのものであると感じます。そんな人々に神は「だれが、昔から、きたるべき事をきかせたか。その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしの他に神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない。」と告げます。初めの時から終わりの時まですべてを支配する神の証人こそ、このわたしたちクリスチャンです。わたしたちは終わりの時がどのように来るかはわからなくとも、ただ神がわたしたちを救ってくださるという約束を持つことで恐れは消えていきます。たとえ人類の始まりについて「非現実的だ」と批判されても、今を生きるわたしたちが今ここで神の愛を受けて、救いに与っていることを確信すること以上に恵みに溢れたものはないのです。未来に待ち受けているものは終わりであることは必然ですが、その間に神が必ずわたしたちを良い方へと導いてくださることを信じることが大切だと思います。初めの時から終わりの時まですべてを支配される全能の神にわたしたち心を向けて、その希望を胸に歩んでいきましょう。

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