深谷教会降誕前第9主日礼拝(宗教改革記念日)
司会:高橋和子姉
聖書:箴言8章1節、22~31節
説教:「最初(はじめ)に創られた者(アダム)」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-566
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「最初(はじめ)に創られた者(アダム)」 箴言8章1節、22~31節
今日は降誕前第9主日礼拝です。23週にわたる聖霊降臨節が終わり、御子イエス・キリストの誕生を準備する期間となりました。この降誕前の時期になると、キリスト教会の伝統として旧約聖書を読み進めることになります。旧約聖書を読み、降誕前第4主日…つまり待降節第1主日に改めてイエス・キリストが誕生されるまでの出来事が語られます。何故そうなのかというと、イエス・キリストの誕生は新約の時代に奇跡的に生まれてきた、神から突然与えられたプレゼントではない。このナザレのイエスこそ、旧約の時代からずっと預言され、神に約束された救い主であるということを再確認するためです。今日は箴言、来週はイザヤ書、再来週は創世記、その翌週は申命記、さらに翌週はミカ書と続いて行くわけです。とても重要な季節となりますが、牧師や聖書のみ言葉を説き明かす人にとってはとても難しく頭を悩ませる時期でもあります。創世記はいいとして、箴言やイザヤ書、申命記、ミカ書は神学を勉強した者としてもあまり馴染みがなく、またこれを説教として皆さんにお伝えするということにハードルの高さを感じるからです。旧約聖書を読むということはとても大切であることは重々承知していますが、なんでこう回りくどいことをするんだろうなぁと、説教をしている今でも思います。しかし神はそう思う人の心をご存じであり、だからこそここを読むようにという意思を持っておられるのではないかと思います。個人的な疑問は、今は置いておきたいと思います。
箴言と聞くと皆さんはどのような思いや想像をするでしょうか。(漢字は違いますが、戦国武将の武田信玄を思い出すでしょう。)箴言は聖書を読んでもどのような物かはあまり知られていません。箴言は別名「知恵の書」「知識の書」と呼ばれています。ダビデ王の息子であり、高い知識と知性を持ったソロモン王が言い伝えた格言集です。1章1節から4節には「ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言。これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉を悟らせ、賢い行いと、正義と公正と 公平の教訓をうけさせ、思慮のない者に慎みを得させるためである。」と書いてあります。時々聖書の名言・格言集がネットで上がるのですが、そこに必ずと言っていいほど箴言の言葉が出てきます。「主を恐れることは知識のはじめである。」という言葉は多くのミッションスクールの教訓となっています。読んでみるとたくさんの驚きと納得が得られることかと思います。
その箴言の中で本日の聖書箇所8章1節、22節から31節は、他の知識や知恵に溢れた具体的な格言とは毛色が違うように感じます。随分抽象的な言葉が並んでいると思うのです。「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。」これはこの地上と天とすべての生き物が創造された「天地創造」を指していると分かります。しかしここに書かれている「わたし」は誰を指すのでしょうか。天地創造から考えると、最初に創られたアダムであろうと想像します。でもよく思い出していただきたいのは、アダムが創られた時には既に天と地、野の獣などが創られていたということです。もしこの箴言でいう「わたし」がアダムであるなら、どちらかの内容が間違っているのではないかと思います。ここが大きな問題であり、頭を悩ませます。ソロモンであるのでしょうか。
この箴言か書かれた時代の人々はパレスチナ即ちカナンに住んでいたのですが、そこは古来多くの神話が語られている場所であったとされています。イスラエルの民がエジプトの地に住んでいた時から数百年の間、そのカナンの地には他の神を信仰する民が住んでいたのですから当然です。イスラエルの民がパレスチナに定住するようになっても、身の回りには他の神話が溢れていました。その異質な状況の中だからこそ、ソロモンは知恵こそ神から与えられたものであり、その知恵は神と共にあったことを伝えようと試みたのです。つまり「わたし」は「知恵」のことです。「わたし」と表記されている部分を「知恵」と読み替えても内容は通じることかと思います。
箴言において知識や知恵は神と共にある、大きな力と感じます。この世の中にも知恵や知識を持つ人が多くありますし、その知恵・知識を得たいと願うわたしたちであります。学校に行けばそういったものを得ることもできるでしょう。多くの知恵や知識を持つ人は社会から称賛されます。しかし人から受ける知識や知恵の結果はどうでしょうか。善い事も起こるでしょうが、そればかりではありません。知識や知恵を蓄えた結果、それを異にする相手と衝突することもあるでしょう。知恵と知識によって苦しみを負うことも過去に何度もありました。知識が人を殺すこともあるわけです。
箴言での知恵と知識はどんなものでしょうか。30節31節には「わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、人々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。」という言葉があります。楽しんで喜んでいます。人を論破しねじ伏せ、相手を負かすための知恵や知識ではなく、神の創造の側にあって優れた者として立ち、その創造されたものを前に楽しみ、世の人を喜ぶという限りない平和を意味しています。
キリストの誕生は知恵の受肉であると捉えています。キリストは決して人を論破するために神に遣わされたのではなく、人が真に平和に生きることができるようになるためにこの地上に来られたのです。キリストは多くの知恵と知識とを持ってお生まれになりました。少年イエスが神殿で周りの大人も驚くほど賢く問答していたと、ルカによる福音書でも伝えられています。つまり知識は主イエス・キリストのことであり、神が天地を創造されたその瞬間から神と共にいた、ということになるのです。神の言葉では言い尽くせない大きな、大きな計画に気づいたとき、わたしたちはその知恵と共に、日々に喜び、この地で楽しみ、世の人と喜ぶのです。
日本基督教団信仰告白には「聖書は、聖霊によって、神と救いとについて、完全な知識をわたしたちに与える神のことばであり、信仰と生活との誤りのない基準であります。」という文言があります。知識は私たちが求めて得るものではありません。自分から求めて得た知識によって、はじめに創られたアダムはエヴァと共に神との関係を断つことになりました。聖書は、父子聖霊なる神によって、完全な知識をわたしたちに与える神のことばです。知識は神から与えられるのです。その神から与えられた知識は人々との生活を楽しみ、この地上での生を楽しむものであるのです。これが地上での平和である。その平和をもたらすために、知識が受肉した神の独り子イエス・キリストがお生まれになる。ここまでの壮大な計画を前にわたしたちは驚くばかりです。そしてこの平和は本当に尊く、簡単に手放してはいけないと強く、強く思います。せめてこの教会につながるすべての人々との交わりを楽しみ、与えられる日々を精一杯楽しんで歩んでいきましょう。それこそが神が望むわたしたちの平和であると信じて。