深谷教会聖霊降臨節第23主日礼拝2024年10月20日
司会:野田治三郎兄
頌栄:28番
祈祷:佐藤嘉哉牧師
聖書:ピリピ人への手紙3章7~21節
説教:「天の市民権」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-451
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「天の市民権」 ピリピ人への手紙3章7~21節 佐藤嘉哉牧師
ピリピ人への手紙はパウロがローマによって捕らえられ、牢屋の中で各地にある共同体へ送った手紙の内のひとつです。「コロサイ人への手紙」、「エペソ人への手紙」、「テモテへの第一の手紙」、「ピリピ人への手紙」の4つの書簡をまとめて「獄中書簡」と呼びます。このピリピ人への手紙は喜びと感謝のメッセージが中心となっており、他の手紙と比べて信徒の励ましやキリストの模範に従うことの重要性を強調して語られていることが特徴です。すっとわたしたちの心に言葉が入って来ます。特に3章は全体にわたり多くの人々を励ます言葉に溢れています。それぞれ見ていきましょう。
1節から11節には肉に依存しないことが語られています。パウロは信者に対して、主を礼拝する時は自己中心的な価値観や人間的な基準に頼らず、喜びをもって行う事を求めています。肉というのは言い換えれば、自己中心的な価値観や人間的な基準と言い換えることができます。パウロは自分の経歴を振り返り、イスラエルの民である証の割礼を誇りとし、また律法を誰よりも完璧に従った生き方をしていたことを認め、それでもそれはキリストを知ることに比べれば無価値であると述べています。これによってパウロは、自分にとって益と思うものも、キリストのためにすべてのものを損失と見なすと述べ、キリストを知り、その復活の力を体験することの素晴らしさこそが最高に価値のあるものであると強調します。キリストを知り、その復活の力を体験する上で受ける苦しみも受けてみたい、何ならキリストの受難を自分も同じように受けたいとされ思っているという強い思いに到達しています。少々わたしたちにはそのことに恐ろしさを覚えるでしょう。しかしこの強い思いがこの後につながる強い励ましの言葉に繋がっていきます。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。
パウロは先ほど述べたキリストと復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人の内からの復活に達したとおもっておらず、完全な者になっているとは思っていないと証し、それをなんとしてでも捕らえようとしています。パウロにとってこのことこそ最大の目標であるのです。彼にとってその目標は自分で見据えたものではなく、神によって自分が捕らえられたことで与えられた目標であるとし、その目標に進んでいく中で自分が犯した過去の過ちが彼に大きな重荷になっていることを思い出すわけです。しかし同時にその過去の過ちがあったからこそ自分が神と出会うことができ、その目標を目指す事ができることをしめし、あなたたちも全力でその目標へ向かって歩みなさいと力強く励ましています。
後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
どうでしょうか。この言葉を聞くと心の内側から力が沸き起こって来るように私は感じます。しかしそうは言っても、パウロがそのように目標をひたすら目指してほしいと人々に語っても、それに異を唱える人がたくさんいることは事実です。ただ単にその目標に向かって進むことが難しいから敵対しているのではありません。キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからです。実際このピリピ共同体は内にも外にもキリストを否定する人であふれていました。パウロという大きな力を持った指導者・リーダーが捕まり、今まさに殺されてしまうかもしれないという苦しい状況の中であれば、ピリピ共同体はまさに解散してしまうことだってあったでしょう。パウロは自分が実際に赴いて、キリストの名によって立てたこの愛するピリピ共同体がそうなってはいけないという必死の思いから、キリストの十字架に敵対して歩いている者も多いが、何よりも自分に倣ってキリストと共に生きようと励まします。天を国籍とし市民権を受けて、様々な悩みや苦しみを帯びているわたしたちの卑しいからだを、主の栄光を表すからだに変えて下さる。これがパウロの言う目標の到達点であり、達成するべきことであるというのです。
わたしはこの聖書の意味をかみしめたのは大学院1回生の冬でした。この時わたしは2つの道が目の前にありました。ひとつは牧師の道、もうひとつはバーテンダーになるという道でした。当時アルバイトしていたバーに有名なホテルのバーで働かないかとスカウトされたことがきっかけとなり、牧師になるか、バーテンダーになるか本気で悩みました。バーテンダーは働いている間とても楽しく、笑いが絶えずあり、お酒もおいしく善い事だらけに感じていました。しかし酔いから覚めた翌日の朝には心に穴が開いた感覚があったのです。その穴を埋めるようにバーテンダーとして一生懸命働いたのですが、その穴は塞がるどころかどんどん大きくなっていきます。それがいつか大きくなりすぎて自分が飲み込まれるのではないか?という恐ろしい感覚に陥り、礼拝に参加し祈りました。するとその穴が塞がっていくような感覚を覚えたのです。その時まで「お前は牧師には向いていない」だとか「牧師はつらい大変な仕事だ。自分からなりたいと思ってなるものじゃない」だとか外野からの言葉に惑わされていましたが、この時はっきりと「神に捕らえられている」と自覚しました。「今まで好き勝手なことをして牧師の道から遠ざかっていましたが、あなたに捕らえられていることに気づきました。どうぞ好きなように遣ってください」と祈ったのを今でも覚えています。その後はたくさんの辛い事に出会いました。人間関係や業務上での失敗、愛する信仰の友を喪うこともありました。バーテンダーであればこんな辛い思いをせずに済んだかもしれないと何度も思いました。しかし神の福音・天の市民権をたくさんの人に伝えていくことこそわたしに与えられた神からの目標であると、都度思い起こし立ち上がることができています。とてもやりがいを感じていますし、悲しみよりも喜びの方が勝っています。
わたしは皆さんと比べれば、社会経験も人生経験もまだまだ浅い者ですから、皆さんの方がそういった経験を経てこられたのではないかと思います。わたしは皆さんの先を行くことはできませんが、この天の市民権を受け継ぐことを共に分かち合って、目標を目ざして共に歩んでいくことはできると信じています。天の市民権を受け継ぐという最大にして最も喜ぶべきことに全身を向けて、ひたすら励んでいくこと。これこそ神に捕らえられた私たちがすべきことであると思います。この目標に全身を向けつつ歩んでいけるように、共に祈りましょう。