「主の遺言書」へブル人への手紙9:11~22

深谷教会聖霊降臨節第22主日礼拝(召天者記念礼拝)2024年10月13日
司会:佐藤嘉哉牧師
頌栄:28番
祈祷:佐藤嘉哉牧師
聖書;へブル人への手紙9章11~22節
奉唱:「愛する者は主のもとに」
説教:「主の遺言書」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-532
奏楽:小野千恵子姉

説教題:「主の遺言書」 へブル人への手紙9章11~22節  佐藤嘉哉牧師

 キリスト教において死は恐れることのない、人の命の通過点であると考えられています。肉体はいつか必ず終わりが来ますが、命は一度神のみもとへと向かい、しばらくの間休み、主イエス・キリストが再びこの地上に来られる時に再び起き上がり、永遠の命を受けることとなります。ですからキリスト者にとって死は恐れることのないものであるのです。しかしこの地上に残されるものは悲しみますし、時に絶望します。驚きのあまり先を見ることもできません。死というものは人にとって避けては通れない大きな出来事であることに間違いはありません。
 わたしたちキリスト教の教会では2種類の書物を聖書として読んでいます。ひとつは旧約聖書、もうひとつは新約聖書です。旧約聖書は神によって最初に世界と人が創られたことから始まり、イスラエルの民即ちユダヤ人が神との契約によって選ばれた民であるということが書かれています。その中にはエジプトの地で奴隷とされていたイスラエルの民を神がモーセを使わせて救い出し、神と人とが正しい関係になるようにとして十の戒めを与えたという、かの有名な出エジプト記や、ペリシテ人の大男ゴリアテを石一つで倒し王となったダビデが登場するサムエル記などがあります。長い人類の歴史において、イスラエルの民=ユダヤ人は迫害されることが多くありました。その中でユダヤ人たちは「民族のアイデンティティ」「わたしたちがユダヤ人であり、いまここに存在しているという自覚」を見出し、神がわたしたちを救い出して下さるという信仰を絶えず守り続けます。現代のユダヤ教もこの戒めを守っているわけです。
 新約聖書はイエス・キリストが救い主として生まれ、人々の罪の為に十字架にかかり死なれ、3日後に復活されたこと。またその後に使徒たちが世界中に赴き信徒を増やしていったということが書かれています。人類が神によって創られてから数えきれないほどの年月が過ぎたことで、神から心が離れてしまいました。神はもう一度人とつながり愛を伝えるため、主イエス・キリストをこの世界に与えたのですが、人はイエスを憎み十字架につけて殺してしまいました。これで完全に神との関係が絶たれたかと思うのですが、神は人がイエスを殺してしまうことを知っており、それでもなおその罪を赦し神に繋がるようにと主イエスを復活させるのです。これによって人は神によって完全に救われた存在となったのです。神の戒めを一生懸命守る旧い契約から解放され、主イエス・キリストの復活によって救われるという新しい契約が私たちに与えられた。だからキリスト教会は2種類の書物を聖書として読んでいるわけです。
 旧約聖書において、神と人との関係を取り持つためには動物の犠牲が必要でした。神に願いがあれば、それなりの動物を屠り、火でその肉を焼いて捧げることが求められていました。この時はこうしなさいという規定が詳細に書かれているわけです。ユダヤ人はこの規定を細部まで守ることによって神と正しい関係を持つことができると信じていました。そしてその規定を守ることができない人々を「罪びと」と呼び差別していきました。さらにこの規定を守ることに必死になり、その先にいる神の存在を忘れてしまう始末です。この惨状を前に神は嘆き、最後の手段として独り子である主イエスを完全なる「犠牲」としてこの世へと与えたわけです。古い契約の大祭司たちは贖いの日に二頭の動物の生贄を捧げなければなりませんでした。そのうちの一頭は彼ら自身を己の罪から贖うための生贄でした。罪なきイエス様は御自分の罪のために生贄を捧げる必要がなかったため、一度きりの生贄で十分だったのです。イエス・キリストの生贄によって完全に罪から赦された私たちでありますから、すなわち人間の力や行為で罪が赦されることがないという意味にもなります。人は大きな力を持つと傲慢になり、神の存在をも否定してしまいます。これこそが人の最大の罪です。わたしたちはそうならないようにと聖書を読み、良心を養い、神の前で謙虚に生きようと努めていきます。
 主イエス・キリストは、人が罪から解放され神のもとで平安にいられるようにという願いを持っていました。これは神から与えられた使命であり願いでもあります。この願いはイエスの死によって叶えられます。これを本日の聖書箇所で「遺言」と表現しています。「いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。」と。最初から人の救いは、主イエスの死が前提であります。つまりこの聖書は「神と主イエス・キリストの遺言書」であると言えます。この遺言書を受け継いだわたしたちは、そのみ言葉によって救われて生きていくのです。そして主イエスが復活されたように、わたしたちも主が再びこの地上に来た際永遠の命を受けることができるのです。
 今日は召天者記念礼拝です。後ほど124名の天上におられる信仰の友の名前を読み上げます。この方々はその神のみ言葉を受けてこの地上を歩み、その最後の時までそのみ言葉を守り続けました。また志半ばに天への招かれた方もおられます。そのおひとりおひとりは主によってキリストの道へと招かれました。そしてその人生を通して神の栄光を表して行かれました。今ここに集うわたしたちはその信仰の友の姿を思い起こしています。主の遺言書を受け継いだこの方々から、わたしたちも受け継いでいます。そしてこの礼拝でその主の恵みを受けることで、天上にいる友にまた会う望みを受けることができるのです。
 人の死は悲しいものです。愛する者を失うことはこの世の中で最も悲しい出来事であります。今年の9月11日、愛する信仰の友の一人が天へと招かれました。突然の出来事にお連れ合いには大きな悲しみがあったことと思います。主は私たちに良い物を与えてくださいますが、同時に大切なものを奪います。理不尽なことのように思うかもしれませんが、これが肉に生きるわたしたちの定めです。しかし神は、わたしたちにただ悲しみのみを与えているわけではありません。その神ご自身が主イエスと共にその大切な人を守って下さることを約束してくださっています。この地上よりも天上で神と共にいる方がより恵まれており、安全で安らかなものです。そのことが信じられるようにと、神と主イエスは願い聖書のみ言葉を与えてくださいました。信仰の先達はその希望を私たちに示しておられます。124名だけではなく、この教会につながるすべての人々の上に、主は臨んでおられます。そして絶望を希望に、悲しみを喜びに変えてくださいます。今日この日、ここに神が私たちを招いてくださったことも、何よりも主の慰めと導きであるのです。この多いなる恵みに感謝して、祈りを合わせましょう。

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