深谷教会聖霊降臨節第21主日礼拝(世界聖餐日)2024年10月6日
司会:斎藤綾子姉
聖書:ピリピ人への手紙1章12~30節
説教:「生きるも死ぬも」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-376
奏楽:野田周平兄
説教題:「生きるも死ぬも」 ピリピ人への手紙1章12~30節 佐藤嘉哉牧師
わたしたちはこれから先何が起きるかわかりません。何が起きるかは神のみが知ることです。これは常識であり、わたしたちがどう善い事を行っても、科学技術が発達しても、未来のことを知ることは到底できません。未来を自分で選ぶこともできません。そうであるからわたしたちは未来に対して希望を抱きますし、未来に対して恐れを抱くのです。一方で、これから私たちに起こることに対して私たちがどのような態度をとるかは、私たち自身で選択することができます。特にとても重たく辛い試練を前にした時、不幸が重なった時、愛する者を失った時など、消極的な感情を抱いた際、わたしたちの態度の選択が前に突き付けられるわけです。「神はどうして私をこのような目にあわせるのか」という嘆く態度。そして「神はこれを通して私に何を伝えようとされているのか…」という問い。このどちらをわたしたちは選ぶでしょうか。もちろんクリスチャンであれば後者である「神はこれを通して私に何を伝えようとされているのか…」と問う態度が理想的ですよね。しかし実際にこのような状況に直面した時、後者のような問ができるでしょうか?牧師といえど、辛い目に逢った時「どうして私がこんな目に逢わなきゃいけないのか…」と嘆いてしまうことが多々あります。まぁそのような状況を招いたのは私自身である場合もありますが…。実を言うと「神はこれを通して何を私に伝えようとしているのか…」という問いは、問題に直面している瞬間に起こるものではないのかもしれません。それに対する答えがすぐには与えられないからです。むしろその問題が起こった後に「神はこの問題を通して私にこのことを伝えたかったのかもしれない…」という気づくことが多々あります。後者の問いはクリスチャンにとって一番理想的な態度でありながら、一番忘れがちであり一番難しい態度なのかもしれません。
本日の聖書箇所ピリピ人への手紙1章12節以降をお読みください。筆者であるパウロはこのように述べています。
さて、兄弟たちよ。わたしの身に起こった事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。すなわちわたしが獄に囚われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。
このピリピ人への手紙を書いたとき、パウロはローマ帝国によって牢屋に投獄されていました。61年から63年の約3年の間、パウロはキリストの教えを宣べ伝えていただけで逮捕され投獄されるという状況にあったわけです。ただひとつの信仰によって耐えがたい苦痛がありました。さらに言えばこの投獄によって信仰的な躓きを覚えたローマの信徒たしがパウロに敵対し、死刑を求めることもありました。「一方ではねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、(中略)、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。」とある通りです。自分を恨み、殺そうとしている人がいること。想像しただけでも心が潰されるほど辛い状況です。いえ、想像できないくらいの状況です。パウロはこのような状況にあっても「喜んでいる」というのだから驚きですよね。ここで皆さん躓くのではないでしょうか。自分はこんな辛い目に逢った時、パウロのような態度をとることができるだろうか、いや出来ない。と思うのではないかと思います。しかしパウロは最初からこのような信仰を持っていたわけではなりません。最初に復活の主と出会った時、彼は目が見えなくなりました。クリスチャンを迫害する者として歩んできた彼は嘆き悲しみます。3日間食事も摂れないほどの絶望を受けていたわけです。主は弟子のひとりであるアナニアに、「目が見えるよう祈っているパウロの所へ行き、彼の上に手を置きなさい」と命じますが、このアナニアも「パウロ(サウロ)はわたしたちキリスト者を迫害していた人物ですよ?」と異を唱えます。これに対して主は「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。と答えるわけです。ここで注目したいのは、「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないか」という言葉です。パウロの回心から始まったキリスト者として、たた伝道者としての歩みは「主イエス・キリストの名のための苦しみ」を帯びたものであったのです。だからパウロは牢獄においての状況も、自分がかつてしてきた迫害への報いであると感じていたのではないか思います。
しかし彼は「この状況は自分がしてきた報いなのだから」と全てを諦めてはいません。しかも「わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」と言っています。自分がしてきた迫害の報いは辛く苦しいものであるが、それによってキリストがあがめられるならば、生きるも死ぬも喜びであるということがわかります。パウロは自分が死に神のもとへ行くことを望んでいますが、生きることによって主のことを宣べ伝えることができる。彼にとっての患難は、人によれば辛いことですし報いであると思うかもしれませんが、その苦しみさえも神と主は益としてくれるということを示して下さっています。
主イエス・キリストですら受難へと向かう直前にゲツセマネで「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」とうつ伏せで祈りました。自分の死が示されている。自分の苦しみが示されている状況であれば、主イエスすらも嘆くのです。ここに大きな慰めがあります。大きな苦難を前に主は神に「このような目に逢わせないで」と嘆く。冒頭で言いました2つの態度の内の前者に通じます。しかし主は「しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい。」と最後に述べるわけです。自分がなぜこんな目に逢わなければいけないのかという問い、葛藤、嘆き。そしてすべてを委ねるパウロと主イエス・キリストの姿は、わたしたちを慰め希望を与えます。そして生きるも死ぬも全て神のみが知っており、その道を私たちに示して下さいます。このピリピ人のクリスチャンたちも、キリストを主と信じていただけで迫害を受ける状況にあったのですから、このパウロの言葉は大きな励ましであったでしょう。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼の為に苦しむことをも賜っている。」この苦しみは必ず神によって救われるのです。これは私たちにも注がれます。「なぜこんな目に遭わなければいけないのか」と嘆くことも、主のためであり、主から賜った恵みであるのです。そしてその後に与えられる気づきこそ、本当の主の恵みと救いです。
本日わたしたちは世界聖餐日礼拝を守っています。世界中にある教会が今日この日に共に主の食卓を守る。わたしたち罪の内にただ死にゆく存在が、主の受難によって神につながり、生きるも死ぬも神が導いてくださる恵みに感謝しましょう。