深谷教会聖霊降臨節第20主日礼拝(交換講壇)2024年9月29日
司会:渡辺清美姉
聖書:ヨハネによる福音書2章1~12節
説教:「ぶどう酒の尽きない人生」
西川晃充牧師
讃美歌:21-451
奏楽:落合真理子姉
説教題:「ぶどう酒の尽きない人生」(ヨハネ2:1~12) 西川晃充牧師
今朝の聖書箇所は、ヨハネによる福音書2章1-11節に記されている「カナの婚礼の物語」です。この出来事は、主イエスが公の場で行った最初の奇跡として知られています。結婚式の席で、水をワインに変える、という驚くべき奇跡を行ない、人々に喜びをもたらしました。この奇跡には、神の豊かな恵みが表されており、それは私たちの生活にも深く関わるメッセージを含んでいます。
ちなみに、この奇跡が起こったカナは、ガリラヤ地方にある小さな村で、主イエスが育ったナザレから約15キロメートルほど離れたところです。考古学的な調査によれば、当時のカナではワインの生産が盛んであったことがわかっており、村全体が結婚式のような祝祭に大きな意味を持っていたことが想像できます。
この物語は、主イエスの働きが特別な場面だけでなく、私たちの日常生活にも深く関わっていることを示しています。主イエスは、病気を癒す、といった劇的な場面に限らず、結婚式という日常の喜びの場にもおられます。これは、主イエスが私たちの人生のすべてに関心を持ち、共にいてくださることを示しています。
ユダヤの伝統において、結婚式は単なる家族のイベントではなく、村全体が祝う重要な祭りでした。結婚は神が人間に与えた大きな恵みの一つであり、新しい命を育む機会でもあります。結婚式は神の祝福を受け取る場であり、その場にイエスが共におられたことは、イエスが私たちの喜びを共に分かち合い、祝福してくださることを象徴しています。
このことは、私たちの信仰にとっても非常に重要です。私たちは、苦しい時にだけ神に頼るのではなく、喜びの時にも神が共にいてくださることを忘れてはなりません。信仰とは、単に頭で理解するだけでなく、心から神に信頼することだからです。信仰とは、私たちの生活のあらゆる瞬間に働きかけるものです。日常の中でも、神の存在を感じ、神が共にいてくださることを信じる力が信仰なのです。
欧米のキリスト教文化には、キリストが日常生活の中にも共にいてくださることを示す習慣があります。たとえば、海外に行って、クリスチャンホームの方の家などに招かれますと、食事の時に一人分多く席が用意してあることがあります。家の方に理由を聞くと、キリストがこの食卓に共にいてくださることを忘れないためだ、というのです。
また一昔前の教会には、「キリストは、わが家の主、食卓の見えざる賓客あらゆる会話の沈黙せる傾聴者」と書いてあるものがよく飾ってありました。英語から日本語に翻訳したものです。Christ is the head of this home, the the Unseen Guest at every meal, and the silent listener to every conversation.
日本のキリスト教の歴史は比較的短いため、このような文化的習慣はあまり根付いていないかもしれませんが、私たちが信仰を日々の生活の中で実践し、主イエスの存在を感じることは、信仰を深めるために非常に重要です。日曜日の礼拝だけではなく、日常のあらゆる場面でキリストと共に歩むことが、真の信仰の在り方なのです。
「カナの婚礼の物語」は、私たちが日常の喜びや困難な時においても、主イエスが共にいてくださる、という確信を持つことの大切さを教えてくれます。この確信が、私たちの生活をより豊かで意味のあるものに変える力を持っているのです。ところで、こうした祝宴が進む中、ぶどう酒が尽きる、という予期せぬ事態が起こります。現代ではさほど大きな問題には思えないかもしれませんが、当時の結婚式では大変な事態でした。
結婚式は何日も続く重要な祝祭であり、ぶどう酒は神の祝福の象徴でした詩篇104篇15節にも「人の心を喜ばせるぶどう酒」と記されています。この象徴的な飲み物がなくなることは、単なる不足を超えた、文化的、宗教的に深刻な問題だったのです。この「ぶどう酒の不足」は、私たちの人生の一部を反映していると言えます。それは、私たちが人生で経験する喜びや意味が失われる瞬間を象徴しています。たとえば、仕事に対する情熱を失ったり、目標を達成した後に感じる虚しさがあるかもしれません。また、日常生活が単調に感じられることもあります。
ここで注目すべきは、主イエスがこの危機にどのように対処されたかです。主イエスは水をワインに変える、という奇跡を行ない、この枯渇の瞬間を豊かな恵みへと変えました。この奇跡は、神が私たちの人生においても同じように働き、私たちが行き詰まった時に新しい希望と喜びを与えてくださることを示しています。結婚式でぶどう酒が尽きるという出来事は、私たちが自分の力だけでは限界があることを思い起こさせます。しかし、その瞬間こそ、神の恵みが働く機会でもあります。主イエスが水をワインに変えたように、神は私たちの人生の困難な時に、新たな命と希望をもたらしてくださるのです。この物語は、神の介入が私たちの枯渇した心に喜びを再び与えることを教えているのです。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、多くの人々に深刻な影響を与えました。私の兄の家族もその一人です。兄の家は半壊し、家の中で子どもたちが家具の下敷きになる危険がありました。幸い、家族全員無事でしたが、家を建て直すために大きな借金を抱えることになりました。このような困難は、たとえ信仰を持っていたとしても避けられないことがあります。私の兄の家族は熱心なクリスチャンでしたが、それでもこのような苦しみに直面しました。このことは、信仰がただ幸せを保証するものではなく、むしろ試練の中で強くされるものであることを示しています。
人生の中で突然喜びや祝福が奪われる瞬間を経験することがあります。たとえば、予期せぬ病気や失業、家族との別れなどがそうです。これを、聖書の「ぶどう酒が尽きる」出来事と重ね合わせることができます。私たちも同じように、人生の中で喜びが失われることがあるのです。では、そのような状況に直面したとき、私たちはどうすべきでしょうか?カナの婚礼では、ぶどう酒がなくなったとき、マリアはイエスに助けを求めました。これは、私たちが困難なときに頼るべきお方が誰かを明確に示しています。多くの人々が、人生で困難に直面するたびに神に祈りを捧げます。それは、私たちが自分の力だけでは解決できない状況にあるとき、神に寄り縋るほかに術がないからです。
しかし、神が私たちのすべての願いをただ叶えてくれるわけではないことも、理解しなければなりません。主が「わたしの時はまだ来ていません」と言ったように、たとえそれが困難であったとしても、神は私たちの思い通りに動かれるお方ではないのです。しかし、神は私たちが最も必要なときに介入し、私たちの人生を変える力を持っておられます。それゆえ、主イエスがこの状況にどのように対応されたか、を見ることで、神がどのように働かれるお方であるのか、をさらに深く考えたい、と思います。
主イエスの言葉には、私たちの期待を超える深い意味がありました。主が「わたしの時はまだ来ていない」と言った時、それは単に助けを拒否しているわけではありません。もっと大いなる介入の前触れであったのです。主は、私たちが人生で「ぶどう酒が尽きる」瞬間、つまり究極の困難や究極の失望を感じるとき、決してそれを無視されるお方ではありません。私の時、すなわち最も必要な時に、むしろ、その状況を「新しい祝福の源」へと変えてくださるお方なのです。これは、ただ単に問題を解決することを意味しているのではありまえん。そうではなく、私たちの考えや捉え方を根本から変えてくださるのです。たとえば、苦しい状況を通して、私たちは「新たな希望」や「成長の機会」
を見出すことができることがあります。
神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは、「安価な恵み」と「高価な恵み」を対比して語りました。「安価な恵み」とは、苦しみや犠牲を伴わない表面的な信仰を指します。それに対して、「高価な恵み」は、試練や苦難を通じて得られる深い信仰を表しています。その意味で、「苦しみに遭いたりしは我に良き事なり」なのです。カナの婚礼で主イエスが用意された新しいぶどう酒は、単なるぶどう酒ではなく、質的に全く異なるものでした。宴会の世話役が「こんなに良いぶどう酒を最後まで取っておいたとは!」と驚いたように、主イエスが与え
てくださるものは、私たちが予想していたものをはるかに超えるものなのです。
私たちはしばしば、失ったものを何とかして埋め合わせようとします。たとえば、何かの失敗をしたら、汚名返上をしようと努力します。しかし、主イエスが与えてくださる「真のぶどう酒」、すなわち、「新しい希望や喜び」は、そうした人間の努力を遥かに超えるものです。それは、私たちが期待する以上の、全く新しい次元の祝福なのです。「カナの婚礼」で提供された「新しいぶどう酒」は、私たちの人生に変化をもたらす力を持っています。たとえば、苦しい時であっても、新しい意味や目的を見いだすことができたり、私たちの信仰を深めてくれたりするものなのです。
この物語が示しているのは、私たちが本当の困難に直面したときに、神がどのように働いてくださるか、ということです。私たちが「ぶどう酒の枯渇」を経験する時、つまり喜びや希望がなくなったと心底感じる時こそ、「神の恵み」が新しい形で現れる瞬間なのです。「新しいぶどう酒」は、旧約聖書においては、神の約束を深めるものでありました。この新しいぶどう酒は、私たちの信仰を通して特別な意味を持
ちます。これは、イエス・キリストの命と十字架の苦しみを象徴するものとなり、私たちの魂を満たす神の恵みへと変わるのです。主イエスが用意されたぶどう酒には、私たちへの深い愛が込められています。この愛は、私たちがどんなに苦しい時でも、主イエスが共にいてくだ
さる、という確信を与えられるのです。
ところで、先ほどお話しした私の兄の話には続きがあります。震災で家を失った後、兄は小学校の教師を続けながら7年間努力して、50代で教会の補教師の資格を取得しました。そして、早期退職後、正式に牧師としての資格を得て、現在は尼崎竹谷教会の主任牧師として働いています。兄が経験した困難は、兄をさらに強い信仰と奉仕の道へと導いたのです。それゆえ、この「カナの婚礼の物語」が教えているのは、人生の中でどんなに喜びが失われたように感じる時があっても、それは神が新しい恵みを与え、新しい可能性を開く時であるということです。私たちもこの物語から学び、日々の生活の中で、神が与えてくださる「新しいぶどう酒」に目を向け、感謝と希望を持って歩んでいきましょう。神が私たちの人生を豊かにしてくださることに心から感謝します