「偉くならなくてもいい」ペテロへの第一にの手紙 2:11~25

深谷教会聖霊降臨節第17主日礼拝2024年9月8日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:ペテロへの第一の手紙 2章11~25節
説教:「偉くならなくてもいい」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-543
奏楽:小野千恵子姉

説教題」「偉くならなくてもいい」 ペテロの第一の手紙2:11~25節    佐藤嘉哉牧師

 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
 ペテロの第一の手紙2章11、12節の言葉です。ペテロはこの手紙をもってクリスチャンとしての生き方や行動について教えています。異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさいとありますが、このりっぱな行いとは一体どういった態度のことを指しているのでしょうか。
 日本人にとってこの「りっぱ」になることは特別な意味があると思います。子どもが大きく成長したり、出世したりした時、本人や親に対して「りっぱになったね」と褒めることが多くあります。またそう言われるように努力することだってあるでしょう。「りっぱになる」ことや「りっぱな行い」をすることは、すなわち「偉くなる」ということにもつながって行くと思います。責任を取る立場になった人を日本は大きく称賛し、りっぱな行いをした人を大きく持ち上げる。偉くなってりっぱな行いをし、称賛を集めたいと願う人たちがほとんどでしょう。そして偉い立場にある自分を大切にし、その地位に就き続けることを望みます。問題が起きた時、そのプライドは大きな邪魔をします。人からの評価が下がることをとても恐れているからです。ある一定の人々による昨今の問題は、そうした立場・地位・評価の喪失を恐れるあまり、心を頑なにしてしまっているのではないかと思います。先週から言っていますが、日本は自分がどうであるかというより、他人からどう思われているかを気にしますから、こういった問題は起こりやすいのかもしれません。一方でクリスチャンはそうした世の中の評価よりも神からの評価を気にする面があるでしょう。どんな逆境をも、どんなに周りから虐げられようと信仰を守り続けた人々がいたことは事実です。それはクリスチャンからすれば「りっぱである」と思います。しかし聖書には意外にもそのことと反対のことを言っています。

 あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。

 この手紙の宛先であるポント、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアに寄留しているクリスチャンは、現地の人たちから異質な存在として見なされており、迫害を受ける状況にありました。この信仰を捨てて神に裁きを受けるくらいなら、信仰を守り続け迫害の末に死んでもかまわないという思いもあったでしょう。それは「りっぱに信仰を守り切った、偉い」という評価となりえます。しかしわたしたちの信仰の基盤である聖書には、決してそうしなさいとは書いていません。むしろその逆で、「すべて人の立てた制度に従いなさい」とあるのです。しかも「主のゆえに従いなさい」です。人の制度に「神の意思とはが違うから」と言ってそれぞれ寄留している場所の慣習や法律に従わずにいれば、迫害だって起こるでしょう。そこで心を頑なにしてしまわぬよう、ペテロはそれぞれの寄留者に「主ゆえに人の立てた制度に従いなさい。」と述べているのです。
 ではわたしたちの主であるイエス・キリストはどうだったのでしょう。主イエスは誰よりも「主のゆえに」律法に従って生きた人でありました。主の御旨を一番理解し、正しい道を、天の国を伝え続けたのです。しかし彼は勝手に律法を解釈した人々によって十字架にかけられてしまいました。人々からりっぱで偉いと思われていた律法学者やファリサイ派の人たちによって…。何か矛盾しているようにも感じるかもしれませんが、彼らが理解していた律法と主イエスの「主のゆえに従う」律法に大きな違いがあり、人々はそのことを理解できず受け入れることができなかったのです。主イエスこそ、当時の人々の律法を守れば問題なかったのではないかと思います。しかしそれは神の御旨ではありません。「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。」という通り、主イエスこそ神の御旨そのものであります。神はその独り子をお与えになるほどに、この世を愛されたのです。だから自分と意見が違うから、神の意思や律法とは違うからと言って、自分とは違う考えを持つ人や兄弟、王を批判することはしてはいけないのです。18節以降は特にそのように寄留者はその苦難を耐え忍び神によりそえられるべきであると述べています。
 プロテスタントの語源となる「プロテスト」は「抗議・異議」という意味があります。カトリック教会が聖書にないことを勝手に行い、人々の心を乱したことを抗議し立ち上がりました。神の御旨は聖書からのみ伝えられるという信仰理解をもっていました。しかしそれは決して相手を論破しようだとか、キリスト教そのものの転覆をもくろんだものではありません。ただひたすらに「神の御旨」にしたがおうと祈り求めた人々によって立てられたのです。
 わたしたちはこの「神の御旨」とは何であるか、自分はどうあるべきかを常に考えていくべきであると思うのです。どんな逆境がわたしたちを襲うことがあっても、それが主の御旨であると受け入れ、耐え忍ぶことをペテロは求めています。それは決して偉くなるからとか人々から称賛を得るためにすることではありません。いくら人の目にりっぱに映ることをしたとしても、神の前では意味がなくなるからです。主イエスは天に富を積みなさいと言っている通りです。人に称賛され、偉くなることを求められるこの社会において、この天に富を積むということはとても難しく思うでしょう。時にはこんな力も地位もない自分が神の前に立っていいのだろうかと悩んでしまうことだってあるでしょう。そう思えてくるのは日本に生きている中で仕方がないことかもしれませんが、そのすべてを神はご存じなのです。そんな悩みを持つわたしたちさえも、神はわたしたちを選び、たましいの牧者であり監督である神のもとに、たち帰ることを赦してくださいました。ですから、神の前で偉くならなくてもいいのです。そして偉くなれなくなってもいいのです。わたしたちは富を天に積むために、神の前でりっぱに立ちひたむきに人々に仕え、神の目にりっぱだと映るよう信仰を熱く燃やして歩んでいきたいと思います。

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