「罪を犯さないで生きる方法」ヨハネの第一の手紙 5:10~21

深谷教会聖霊降臨節第16主日礼拝2024年9月1日
司会:高橋和子姉
聖書:ヨハネの第一の手紙 5章10~21節
説教:「罪を犯さないで生きる方法」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-459
奏楽:野田治三郎兄

説教題:「罪を犯さないで生きる方法」 ヨハネの第一の手紙5:10~21  佐藤嘉哉 牧師

 罪を犯さず、誠実で生きることはキリスト教徒のみならず全人類が目指すものです。罪を犯せば正常な生活を守ることはできません。罪を犯さずに生きることは完璧な人間性を証明することにもなりますから、社会的にも認められることでしょう。完璧な存在は誰もが望み憧れるものです。正しさは社会的に通用するのです。日本において罪を犯すということは、当然のことながら赦されないことです。罪を犯せば当然裁判にかけられ、相応の刑を受けることになります。また罪として逮捕されたり裁判にかけられるようなことでなくても、世間の人々にとって不快であったり、赦すことのできないことをしたりしたことで、その人物を徹底的に叩くなどのことも往々にして起こります。昔から日本には「村八分」という言葉がありますから、社会的コミュニティから排除されることを何よりも恐れているのかもしれません。だから「罪を犯さずに生きる方法」を宗教に求めます。ですが聖書には罪を犯さずに生きる方法ではなく、人間がいかに愚かで罪を重ねる者であるかをまじまじと教えられます。読めば読むほど人間の罪深さや愚かさが見えてきて、それが自分のことのように感じます。ですから金持ちの青年のように、日本人はキリスト教を受け入れることが難しいのではないかとさえ思います。遠藤周作の「沈黙」では、日本はキリスト教伝道にとって沼であると書いています。社会的コミュニティである村から排除されるくらいなら、踏み絵を踏まないで殺される方が良いなんて信仰が、聖書に書かれているわけではありません。むしろその踏み絵に描かれている主イエス・キリストならば、人々の命が守られるなら迷うことなく踏み絵を踏むでしょう。しかし五島に住むクリスチャンはそうはせず、踏み絵を踏むことは最も避けるべき罪だと思い込んでしまっていたのです。また自分が罪深いことをしたと思ったら、何が脅迫されたかのように懺悔をする。彼らが守った信仰はあついものですが、よくよく考えてみればキリスト教の教えによらない誤った考えであったのです。
 しかし現在の社会に目を向けてみても、この「罪」についてのキリスト教の考えとは異なった認識がなされているように感じるわけです。宗教を信じて自分が犯した罪を赦してもらうことを期待したり、罪を犯さず清く真っ当に生きるために神の言葉を信じたり、自分が犯した罪によって死後地獄に落ちないように一生懸命奉公する。実はこっちの方が日本人にとって考えやすいことだと感じます。ですがこれらは少なくともプロテスタントにおいて全く違う考えなのです。
 本日の聖書箇所には「罪」と一言で言っていますが、英語で「罪」には2種類意味があります。1つは「Criminal」つまり「犯罪」で、日本語での「罪」は一般的にはこちらの方を指すことでしょう。もう1つは「Sin」で「原罪」を指す言葉です。わたしたちが生まれ持ってきた罪のことです。創世記において神によって最初に作られた人、アダムとイヴが神の命令に背いたことで始まったものです。わたしたちはしばしば、このアダムとイヴの犯した罪によって人は罪を犯す生き物になったと解釈することがあります。ですが創世記から永遠に長く続くこの「原罪」は神と人間の関係性の別離の始まりを指すのであって、「罪を犯す理由」ではないのです。つまり先ほど述べた解釈とは違うことがここで書かれているのです。人間にとっての最も重たい罪というのは、「神を信じない」というものであるからです。
 本日の聖書箇所の冒頭にもこうあります。「神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。」あかしとは主イエス・キリストこそ真に神の子であるということであり、真理のことを指します。主イエス・キリストを神の子と信じない者は神を偽り者とまでしてしまう。先ほど言った原罪による人間の罪を述べているわけです。またこのあかしは「神が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである」と言っています。永遠のいのちというのは不老不死というものではなく、神のめぐみのうちに永遠に生きることです。クリスチャンはその神の恵みを受けることを望み、願い求めるのです。「何事も神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれてくださる。」これが私たちの救いにつながって行くのです。
 この手紙を書いたヨハネは、福音書記者ヨハネが書いたという確証はありませんが、この救いにつながる希望・真理は、このヨハネによる福音書8章32節の「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」という主イエスの言葉から来ていると思います。神を信じるということ、主イエス・キリストを神の子と信じることでわたしたちは自由を得ることができるのです。ではこの自由は何からの自由なのでしょうか。それは「神を信じず、主イエスキリストを神の子と信じない」罪からの自由です。人が神を信じない、神の救いを信じられなくなる理由はいろいろありますが、その最たるものは苦難や試練にであったから、神と主イエス・キリストを信じることができなくなったり、自分は神とは無関係だと離れていってしまったりします。また誤った信仰理解に陥り不健全な状態に陥ってしまうこともあるでしょう。今日の聖書箇所の最後に「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。」というのも、この手紙の宛先が信仰を守るのに辛い状況の中を過ごしていたからであります。自分たちの信仰が壊される、命の危機が迫っている。その目の前の状況に絶望し、こんな目に合うのは自分が罪を犯したからだ。罰が当たったんだと言って漆を願う。かつてユダヤ人が病気を患うのは本人か家族が罪を犯したからだと考えていました。遠藤周作の「沈黙」でも、信仰を捨てなければ殺されるという状況の中で正常な判断ができず、「神に逆らって罰を受けるのであるなら、このまま死んだ方が良い」という考えに至るわけです。
 実際現代の日本では、そういった信仰に対してあからさまな迫害は起きていません。だから「罪」に対しての誤った解釈は起こりえないはずです。しかしその罪から自由になったと感じることがわたしたちはできているでしょうか?わたしはそうではないと思います。人がしてしまった失敗や罪に対して、あまりにも敏感に、そして激しい感情を向けて批難していないでしょうか。あまりにも不寛容な時代をわたしたちは生きていると感じるのです。しかしヨハネは16節において「もしだれかが死に至ることのない罪をおかしている兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちをたまわるであろう。」と言っています。人のする罪や過ちは「死に至ることのない罪」に分けられます。人のする罪は神によって赦されるものであるから、その赦しがあるように祈りなさい。そうヨハネは言っていると読み取れます。しかし同時に「死に至る罪もある」と言っている通り、「神を信じず、繋がろうともしないこと」はいのちを得ることができず、罪の内に死にゆくことを述べているのです。恐ろしいと思うかもしれません。ただ神を信じて主イエスを神の子と告白することは何にも難しいことではないのに、あまりにもハードルが高く感じてしまうのも私たちの罪から来る感情なのかもしれません。
 しばしばクリスチャンは世間から「罪を犯さない完璧な人」という印象を持たれることがあります。牧師なんてその最たるものです。しかし皆さんもご存じの通り、クリスチャンだって罪を犯します。大小さまざまなものですが、人は完璧に生きることなどできないのです。しかしそんなこと神はすべてご存じであり、わたしたちを正しい道に導いてくださいます。それが赦しであり、永遠のいのちであるのです。罪を犯すことを悔やんで、神に赦しをもらおうと悔い改めることは大切なことですが、それにばかり心を奪われてはなりません。何よりも神が今あなたを赦している。15節にも「わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」と書かれています。ですからわたしたちは自由に、神のもとで生きていいんです。クリスチャンであっても、まだ信仰を告白するに至っていない方であっても、失敗したっていいんです。神があなたを赦し、愛してくださっているのですから。
「罪を犯さないで生きる方法」ばかりを考えるのではなく、「罪を犯しても赦してもらえるという信仰」をもって歩んでいきましょう。そして神に感謝して歩んでいきましょう。

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