「私たちはどう生きるか」 ローマ人への手紙 7:1~6

深谷教会聖霊降臨節第14主日礼拝2024年8月18日
司会:野田治三郎兄
聖書:ローマ人への手紙7章1~6節
説教:「私たちはどう生きるか」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-523
奏楽:野田周平兄

説教題:「私たちはどう生きるか」 ローマ人への手紙7:1~6  佐藤嘉哉牧師
ローマ人への手紙7:1~6

 「君たちはどう生きるか。」2023年夏に公開された宮崎駿監督によるジブリ映画の最新作が公開されました。見た方はいますでしょうか。わたしは公開2日目に映画館で観ました。宮崎駿監督のジブリ映画は大好きで、全作品を見るほどのファンですので、待望の新作ということで期待を胸に見に行きました。結果どうだったか。頭の上がハテナ?でいっぱいになるくらい、難解で理解の難しい内容でした。まぁ見ごたえはあったけどさ、ジブリらしい映画だけど…。で?というのが正直な印象です。どんな内容か、見たことのない方もいらっしゃるでしょうから、大まかに説明します。中学生の主人公は幼い頃に母親を空襲による火災で失うという悲しい過去があります。そのトラウマを抱えたまま数年が経ち、父親とその再婚相手と共に父親の実家へ移り住むことから物語が始まります。父親と再婚相手との間には子どもが生まれる予定ということもあり、主人公の心は非常にもろく壊れやすい状態になっていました。ある日外を見ていると一羽のアオサギが飛んできて、主人公に「助けて」と言います。その声は死んだ実母の声でした。「お前は母親の死体を見たのか?お前の母親は生きている」とそのアオサギに言われ、使われていない屋敷の塔に入って行くと摩訶不思議な世界が広がっており、主人公はどんどんその世界にもまれていく…。母親は生きているのか?またこの不思議な世界の正体は?
 実際この映画は1度ですべてを理解することはできませんでした。結論から言えば、母親は生きてはいませんでした。しかし主人公はその摩訶不思議な世界で様々な冒険をし、心を強く持つことができ、母親の死を受け入れ、新たな家族を愛していこうと胸に誓う…というものだろうと理解しました。
 「君たちはどう生きるか。」は昭和12年に吉野源三郎による同名の小説を読んだ主人公による、彼なりの生き方をあらわした物語…という内容のように思いました。彼が出会った生き方を問うこととなった出来事はどれも超常的です。しかしその彼が自分自身を見つめるきっかけとなったのは、間違いなく父親の再婚であったと思います。母親が死んだことを心のどこかでいまだに受け入れることのできない主人公を置いて、父という絶対的な大人が先を進もうとする。何か自分を無視して世界が移ろいゆく。そんな感覚の中で主人公は孤独と葛藤を抱きます。そして父親と再婚相手との間にある愛に憎悪を抱き、結婚そのものへの拒否反応も起こすのです。思春期に少年から大人へ変わる。それがこの「君たちはどう生きるか」の問題提起、物語の根幹となっています。
 さて、本日の聖書箇所のローマ人への手紙は、信仰のみ人は義とされるという「信仰義認」を強く主張する手紙です。使徒のパウロによる神学の中心となるものです。パウロはかつてファリサイ派というグループに属し、律法を忠実に守り、律法を熟知した人物でありました。何度も話しますが、そのパウロはキリスト者の迫害を賛成していたにも関わらず、復活の主イエスと出会ったことでイエスをキリストと信じるようになりました。律法を完璧にこなしてこそ救われるという「行為義認」から信じることで救われるという「信仰義認」へと変わったのです。6節の「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。」という言葉に彼の変化を知ることができます。
 ここでパウロは律法からの解放を、「結婚の比喩」によって説明しようとしていることに興味がわきます。わたしはまだ結婚していませんし、どんなものであるかはわかりません。いずれは結婚を考えるような相手が与えられるようにと願ってはいるのですが…。まぁそそれは置いておいて。このローマ人への手紙が書かれた時代の結婚については、とても厳しく、誓約がたくさんついたものでありました。7章2節には「すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。」とある通りです。パウロにとって律法とは結婚相手であったと思うほどいとおしく思う存在であったのでしょう。律法を愛するがゆえに完璧であり、忠実にいようとしていたのではないかと思います。ユダヤ教から改宗してキリスト者になった人々は、少なからずいたので、「律法」に対しては独特の思い入れはあったのではないでしょうか。例えれば「故郷への郷愁」のようなものがそうです。やはり人間の心は、基本的には保守的なのでしょう。今までと同じこと、当たり前なことをそのまま引きずって、ずっと繰り返し、反復してゆく。その日常がずっと続くことを願う。それで安心し、平安を得る。結婚の本質には、そのような面があるのではないかと思うのです。
 ただここで突然パウロは、結婚は連れ添って来た相手が亡くなればそれでお終いだと主張します。結婚を死ねば解放されるとあからさまに言ってしまうのだから、随分と配慮に欠けた言葉だなぁ。と思います。パウロが結婚についてどのように思っていたかは定かではありませんが、主イエスの十字架の死と復活を介さない古い律法は、人をがんじがらめにする忌まわしきものであるという考えだったのかと思います。しかし実際カトリックでもプロテスタントでも、結婚自体をとても大切に扱います。カトリックは結婚を洗礼・聖餐に並ぶ秘蹟と捉えているくらいです。結婚と律法とをどう捉えるべきか、それは難しい事柄のように思います。ですが考えてみれば、わたしたちはその答えを当たり前のように知っているのです。それは愛です。時代によれば結びつかないかもしれませんが、結婚は愛に満たされたものであると思います。そしてそうであってほしいと願うものです。昔の律法による神との契約は愛による結婚はありませんでした。しかし新しい主イエスの愛による律法は愛に満たされています。古い律法が主イエスの死によってなくなり、主イエスの復活によって愛の律法が与えられました。6節には「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。」とあります。新共同訳聖書には「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」と書かれています。“霊”は神の愛によるものですから、愛に従う新しい生き方が私たちにはできるということです。そうです。主イエスもその愛をもって私たちの贖いとなられたのですから、わたしたちも愛を知り、愛を以て互いに仕えていたのです。ですからわたしたちは既に新しい生き方で生きていたわけです。
 冒頭言いました「君たちはどう生きるか。」の主人公は、自分を置いてきぼりにして他の女性と結婚し子どもを授かった父と再婚相手に憎悪したのも、自分が愛されていないのではないかという疑念からであったのではないかと思います。そして主人公は冒険の中で実の母が自分を心の底から愛していたことを知ります。母だけではありません。摩訶不思議な世界に飲み込まれた息子を必死で探す父の存在。血はつながっていなくても自分を本気で心配する継母と家政婦たち。主人公は周囲からたくさんの愛を受けていることに気づくことができ、実母の死を受け入れて新しく生きていく。そんな結末であったと私は感じました。
 ジブリ映画はそうした結末でしたが、わたしたちクリスチャンも最終的には「神から愛されている」という絶対的な信仰に立っています。わたしたちは愛を受けてどう生きるかを常に問われています。古い生き方によらず、「霊」に従う新しい生き方で従うとは、互いに愛し合い仕え合うことであると思います。これからの1週間も、愛をもって歩んでいきましょう。

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