「恥ずかしがり屋のわたしたち」ヨハネの第一に手紙5:1~5

深谷教会聖霊降臨節第12主日礼拝(平和聖日)2024年8月4日
司会:渡辺清美姉
聖書:ヨハネの第一の手紙5章1~5節
説教:「恥ずかしがり屋のわたしたち」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-469
奏楽:小野千恵子姉

説教題:「恥ずかしがり屋なわたしたち」ヨハネの第一の手紙5:1~5  佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所ヨハネの第一の手紙は、聖書に触れている方でもあまり読んだことのない箇所かと思います。また他の「手紙」と称される聖書の箇所とは異なる点がいくつかあります。例えば1章を見ていただくとわかりますが、誰がこの手紙を書き、どこへ宛てているのかが本来なら書かれるはずですが、なぜかこのヨハネの第一の手紙には書かれていません。よってこのヨハネの第一の手紙は手紙ではないと見なされてきました。なぜ「手紙」と名前が付けられたのでしょうか。それは後にかかれています「ヨハネの第二、第三の手紙」に明確に宛先が書かれており、送り主である筆者も同じであろうことから、これらを「ヨハネの第一、第二、第三の手紙」と称することにしたそうです。
 またこのヨハネの第一の手紙には謎があります。それはこの筆者であるヨハネとは何者なのか、ということです。パウロが書いたとされるパウロ書簡には必ず、筆者であるパウロの名前が書かれていますが、ヨハネの手紙にはありません。ヨハネと聞くと私たちはバプテスマのヨハネと福音書記者ヨハネを思い出すでしょう。この手紙の筆者は福音書記者ヨハネなのではないか?と思うかもしれません。1章1節には「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について…」とあります。ヨハネによる福音書1章にも「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。…」とあります。共通する言葉がいくつもあります。福音書記者ヨハネとこのヨハネの手紙の筆者が同じである可能性は大いにありますが、そうであると断定できるものはなく、否定できるものもありません。これこそ真実は神のみぞ知ることです。であるならば、わたしたちはその福音・神学の共通点を二者から読み取るべきだと思います。今から後は混乱を避けるため、「福音書のヨハネ」と「手紙のヨハネ」と呼び分けることにします。
 「手紙のヨハネ」はこの手紙に一貫した教えを伝えています。それは「異端の教えに気を付けるように」ということと、「光の子と暗闇との対立」、「神の愛」です。これらは「福音書のヨハネ」の神学にも共通している点でもあります。「福音書のヨハネ」が主イエス・キリストの福音を伝えようとしたのも、当時のキリスト共同体が壮絶な迫害を受けており、生きる希望を失っている状況にあったためです。この状況の中にいればキリストの福音と異なることを教え、混乱を招く者も出てきます。「福音書のヨハネ」はその共同体に希望を与えるために暗闇に勝利した光の子、神のみ子の存在を伝え、神がわたしたちを愛しているという確信を教えたのです。「手紙のヨハネ」もこの神学に基づいています。その最たるものが4章16節の「神は愛である。」の一言に凝縮しています。この愛を携えて、共に同じ信仰を持つ者同士歩んでいこうと励ましています。そして5章においては、その愛をどうしていくのかが言及されています。「福音書のヨハネ」はそこを慎重に書いていました。「手紙のヨハネ」は言葉が少ない手紙の中でも端的に、明確に、大胆にこのことを書いています。
 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である。」という1節の言葉はとても印象的です。福音書のヨハネが15章16節に書いた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」という神の招き・選びに共通しています。その神の招き・選びを信じ、神を愛するならば、神から生まれた者をも愛するとあります。つまり同じ神を愛する者同士も親愛を持つことができるのです。つまり信仰を同じにする兄弟姉妹を互いに大切にしなさいと伝えているのではないかと思うのです。このヨハネの手紙が送られた相手や、その背景がどうであったかはわかりませんが、大抵その手紙で指摘している問題が発生しているからでしょう。長い歴史においてキリスト教徒が迫害された時は長く、辛いものでした。その中で信じる者同士が愛し合うことは困難であったでしょう。だからこそ手紙のヨハネは力強く互いに愛し合うことを教えています。しかもそれを兄弟という疑似的な家族関係を譬えに上げているわけですから、力の入れ具合は相当なものです。
 兄弟を愛するように、神の家族として結ばれた者同士が愛し合うことで、神を愛することになる。神を愛して戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たち…つまりわたしたちを愛していることを知るのだ。そう手紙のヨハネは教えています。この戒めとは何のことでしょうか。それは「互いに愛し合いなさい」ということだと思います。ずっとこのことを伝えているわけです。この戒めはむずかしいものではない。確かにその通りだと思います。しかし本当にむずかしいものではないのでしょうか。目を外に向ければその逆であると感じることがほとんどです。
 先日から始まっているパリオリンピックでも、問題が毎日のように取りざたされています。特定の選手の態度や結果が気に入らず、選手やその応援している相手のことを誹謗中傷する。思想を押し付け合い話し合いすらまともに起きない状況。平和の祭典と言っていながら決して平和と言えない状況に嫌気がさしてきます。しかし思うのです。人間が人間の栄華に酔っていては愛など無意味なのではないかと。しかしその愛がなければ人間は分断と破滅の道を歩みます。人間の栄華を極めたソロモン王でさえ、神が造られた尊い花一つほどにも着飾ってはいなかったと言われている通りです。神の前で人が造ったものは無になります。ですがわたしたちはその神に選ばれ、愛されてこの場に集っているのですから、恥ずかしがらずにそのことを感謝し互いに伝え合うべきです。
 しかしなぜそうならないのでしょうか。「互いに愛し合う」という戒めは難しいものではないと手紙のヨハネが言っているのに、なぜ難しいと私たちは感じるのでしょうか。理由は単純に、わたしたちは恥ずかしがり屋であるからだと思います。神の前で謙虚にいようとする姿勢はとても素敵です。しかし神からの招きと呼びかけがあるのに、自分なんてそんな立場じゃない…と尻込みしてしまう。それは謙虚ではなく単純に神の前で恥ずかしがっているだけです。しかし神はそんなわたしたちを容赦なく愛していると伝えてきます。現にわたしたちはそのことを経験してこの礼拝に集まっているんです。神からの招きがなければこの教会に集うことはまずありえません。自分から行こうとしたのではなく、神が愛をわたしたちに与えてくださり、招いてくださったからここに来たのです。このこと以上に愛を語ることはできません。そして私たちはこの人間が支配し繁栄している世に勝つ力を持つことができるのです。他人を批判し対立した方が味方も多いでしょうし生きやすいでしょう。しかしそれは破滅の道に続いています。その世に抗い、神に召された者として歩む者こそ、本当の愛を伝える存在であり、平和を作り出す者となるのです。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。手紙のヨハネはそう伝えています。この事実は福音書のヨハネの述べる福音に共通しています。この両者が同一人物かは明確にはわかりませんが、同じ神と独り子を信じているならば、同じ愛を伝えていることになります。わたしたちはその愛を受けています。この喜びを前に恥じていてはいけません。自ら受け取りに行くくらいの気持ちでいなければいけません。そしてその愛を受ける者同士がまた共に愛をもってかかわりに行くことで平和は作り出されていきます。
 今日は平和聖日です。79年前に終戦となった太平洋戦争は今もなお傷跡を残しています。当時のことを知る人は年々減っていき、平和の尊さを語ることが難しくなってきています。だからこそわたしたちは変わることのない神の愛を伝えて、互いに愛し合うことの尊さを伝えていきましょう。

関連記事

PAGE TOP