深谷教会聖霊降臨節第5主日礼拝2024年6月16日
司会:斎藤綾子姉
聖書:へブル人への手紙12章18~29節
説教:「拒むことがないように」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-578
奏楽:野田周平兄
説教題: 「拒むことがないように」 へブル人への手紙12章18~29節
最近若い世代の「ほにゃらら離れ」という言葉をよく耳にします。例えば「車離れ」、「海外旅行離れ」、「結婚・恋愛離れ」などです。ある世代の人々にとっては車、旅行、恋愛はステータスのようなもので、どれだけお金がかかっても手に入れたいという願望があったことだろうと思いますので、この話を聞くと驚かれる方も多いと思います。そして今日話題になっているのが、「電話離れ」です。メールやLINEなど、電話をせずとも意思疎通をつつがなく行うことができ、文として内容が記録されるため、電話をしたり受けたりする必要は昔ほどなくなりました。そのため電話をかける、電話に出るという行為自体に逆に抵抗感を感じている人がいるそうです。ネットニュースでは新卒入社の社員が電話の対応をせず困っているという人の声と、電話に出るか出ないかは自由に決められるべきだと主張する声もあるほどです。
わたしたちクリスチャンは自分からクリスチャンになろうとしてなったのではなく、神の呼びかけがあり、それに応えて初めてクリスチャンになります。この神の呼びかけを英語で「Call」といいます。この「Call」は電話のコールと同じ意味です。神から私たちに呼びかけがあり、それを私たちが受け応える。この流れによってわたしたちは救いの道へと導かれるのです。毎週水曜日10時30分から聖書を学ぶ会を行っており、その中で一足早く「呼びかけ」のことに思いを馳せました。そして参加されている方々から、このような神の呼びかけを受けてこの道に導かれた、というお話を聞くことができました。生まれた時からクリスチャンである方や、大きな苦しみの中を歩んでいる中で神の呼びかけに心を救われクリスチャンになられた方。たくさんの神の呼びかけを通して、どれほどこの呼びかけが私たちに救いを与えてくださるか。恵み深いものであるかを感じることができました。
今日の聖書箇所へブル人への手紙12章18節から29節には、神の呼びかけと応答について書かれています。18節から21節までは旧約時代の神と人との関係を端的に伝えています。ここで登場するモーセは旧約聖書の出エジプト記に登場するモーセであり、神と出会い、神の戒めを受けた人物です。エジプトを脱出したイスラエルの民はシナイ山に来た時に、神の声を聴くこととなります。神の声が響き、それを聞いた人々が恐れおののいたということが書かれています。「手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉が響いてきた山」のことです。民は恐れのあまり、モーセを通して言葉を語ってほしいと願い出ます。しかしモーセすらこの状況に恐れてしまい、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」というほどでありました。冒頭述べました若者の電話離れする理由は、電話相手から受けるストレスを恐れているからだそうです。神の声を聴き恐れて、直接ではなくモーセに言ってくださいと願うイスラエルの民と同じように思えます。モーセですら恐ろしさのあまりおののいていたのですから、相当なものであったと思います。「畏敬の念を払う」の「畏れ」ではなく、「得体のしれないもの」への恐怖の「恐れ」と言えます。それはそうです。今日の聖書の箇所において、イスラエルの民は「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に耐えることができなかったという説明があるほどです。これを聴いて皆さんも恐ろしいと思うでしょう。わたしは今までに2つの教会で聖書を学ぶ会を行ってきました。その集会で旧約聖書を読んでいるとき、「旧約の神と新約の神が同じであるとは思えない。」という意見が必ず出てきます。そうですよね。私たちの知る神は愛の神です。しかし旧約は怒る神と呼ばれているほどに、人々を罰するのですから。実際ユダヤ教では現在も神の赦しと救いは来ていないと信じています。
ここまでの違いがキリスト教とユダヤ教にはあるのです。旧約聖書を読むと神の言葉につまずきます。そしてキリスト教の神と別のものであるように思えてきます。ですか同じ神であることに間違いはありません。わたしたちはイエス・キリストを仲介して初めて神の赦しと救いと愛の言葉を受けるのです。新しい契約の仲保者イエス・キリストを通さなければ、神の救いに気づくことができず、罪の道を歩み続けてしまいます。そうであれば、ただ死にゆくだけです。しかしただ死にゆくだけの罪深い私たちに神は呼びかけてくださいます。わたしとわたしの救いを信じなさい、と。ヨハネによる福音書15章16節には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」ということばがあるほどです。
この手紙の宛先であるヘブライ人は、かつてユダヤ教徒だったのですが、キリスト教に改宗した人々であったそうです。しかし迫害を受けたことでまたユダヤ教へと戻ろうと考えていたり、実際神殿でユダヤ教の礼拝を守ったりする人もいました。自分が神に呼びかけられ、選ばれたにもかかわらず、自分の身を案じユダヤ教へとまた戻ろうとする。なんだかむなしくなってきます。ユダヤ教もキリスト教も同じ神をあがめているのに。これはもう神の存在ではなく、迫害する人を恐れているからにほかなりません。神の怒りより人から受ける迫害の方を恐れていたのです。そのような自分勝手なことをしてはならないと思いつつも、わたしたちも自分に都合が悪い問題が起きると、その責任を神に転嫁してしまう部分があることも事実です。これだけ信じているのに少しも救いをもたらしてくれなかった。これだけ祈り求めても、その祈りに応えてくれなかった。そのような思いを持つことだってあります。ヘブライ人の恐れは旧約のイスラエルの民にも、そして私たちにも共通することなのです。ですがわたしたちは間違いなく、神からの呼びかけを受けているのです。選ばれているのです。ですからここに立っており、今この礼拝を捧げているのです。この事実を拒むことがないように私たちは良いときも悪いときも心にとめて歩んでいくべきであります。今はまだ神を私の神、イエス・キリストを救い主だと告白するに至っていない人も、間違いなく選ばれています。すべての人に神は救いを与え、声をかけておられます。その声に応えるかどうか。それが重要なのではないでしょうか。
26節以降にはこう書かれています。「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」
この震われるはとても難しい概念でありますが、簡単に言えば使徒信条にある「生けるものと死ねるものとを審きたまわん」とある通り、神の呼びかけに応える人とそうでないひとを振るいにかけるということです。選びを受けている私たちもその震いをもう一度受けます。しかし神の選びを拒むことなく、神の呼びかけに応えることで、神の支配される国に招かれるのです。このことに感謝をしよう、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。この手紙の著者はそうへブル人に、そして私たちに語り掛けます。神からの呼びかけを拒むことなく応え、神と主イエスに心を向け歩んでいきましょう。