「初めから聞いたこと」 ヨハネの第一の手紙2:22~29

深谷教会聖霊降臨節第4主日礼拝2024年6月9日
司会:渡辺清美姉
聖書:ヨハネの第一の手紙2章22~29節
説教:「初めから聞いたこと」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-509
奏楽:小野千恵子姉

音声が収録されていませんでしたのでYoutube配信は載せません。

説教題:「初めから聞いたこと」 ヨハネの第一の手紙2:22~29

 わたしたちのクリスチャンとしての歩みの出発点は何でしょうか。それは人によって異なります。初めはキリスト教に全く関わりもなく過ごしていたが、ある人や物事と出会うことで教会に導かれた時から歩みが始まった方がこの中にもおられるでしょう。また親がクリスチャンで、生まれた時からクリスチャンの歩みが始まったという方もおられるでしょう。私は両祖父母の代からのクリスチャンですから、生まれた時からその道は示されていました。だからでしょうか。神と主イエスとの劇的な出会いを経てキリスト教へ導かれた方のお話を聞くと羨ましいという思いが生まれてきます。どちらが良いか、というのはありません。人が違えば神と主イエスキリストによる導きも違ってきます。それが導きの本質なのかもしれません。もし全員が同じ導かれ方をするのであれば、違う導かれ方をしたという人がいた場合、「異端」と認識して迫害をするようになるでしょう。しかし少なくとも、今のわたしたちはそうではありません。違う導かれ方をしたわたしたちどうしが互いの導きを喜び、その中にある神と主イエス・キリストの大いなる計画を感じるのであります。
 今日の聖書箇所ヨハネの第一の手紙2章22節から29節をご覧ください。22節には最初に「偽り者」という言葉が出てきます。この「偽り者」とは「イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。」と説明しています。「反キリスト」という言葉は2章18節から頻繁に出てきます。皆さんは「反キリスト」と聞くとどのようなイメージを持つでしょうか。「死んだのに復活したなんてことを本気で信じることなんてできない、ばかげている」とか「目に見えないものを信じるなんてばからしい」と思う人のことでしょうか。聖書や神の救いを馬鹿にする人は反キリストではなく、キリストを知らない人と言えます。では反キリストとはどういった性質をもっているのでしょうか。反キリストをカタカナにするなら、アンチキリストです。アンチとは悪意を持って相手に反対・対抗・排斥をすることです。つまりキリストに反対・対抗・排斥することであり、わたしたちクリスチャンではなく主イエス・キリストに対して反対する者ということです。「復活などありえない」とか「目に見えないものを信じるなどばからしい」ということではなく、主イエス・キリストの存在そのもの否定しているのであります。
 そもそもこのヨハネの第一の手紙は、エフェソの共同体に宛てた手紙であるとされています。このエフェソの共同体の中にキリストの復活と福音に反対する教師がおり、健全な信仰を守ることができない状態だったため、ヨハネは正しい信仰を守るようにと願い、この手紙を送りました。偽の教師が派閥を作り、キリストがわたしたちの唯一の救い主であることを否定し、自分の思いを… この悪しき状況にあるエフェソ共同体に対して、まずヨハネはこう書き始めました。1章1節をご覧ください。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について…すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」とあります。初めからあったもの、聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、いのちの言。これは同じヨハネが書いたヨハネによる福音書1章のことばに通じるものがあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
 おそらくこのヨハネの手紙を宛てたエフェソ共同体はやみの中にあったのでしょう。神である言を信じることができず、神の示された道からそれてしまう人がたくさんいたのかもしれません。そんな状況にヨハネは、自分が記述した福音書の根幹となる言葉を用いてエフェソ共同体に初めから聞いたことを心にとどめなさいと言っているのだと思います。
 初めから聞いたことはなんでしょうか。それは恐らくこの言そのものです。神である言はすなわち主イエス・キリストがわたしたちの救い主であるということです。これは揺るぎない、絶対に変わらないことです。冒頭に述べましたが、わたしたちがクリスチャンとなった出来事や導きはそれぞれ違います。しかし導かれた後わたしたちはひとつの同じことを心にとどめることになります。それはどの時代においても、良いときも悪いときも、主イエス・キリストはわたしたちの救い主であると告白することです。神より油注がれた主イエス・キリストをわたしたちが心にとめているのであれば、「キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。」「この油が、すべてのことをあなた方に教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼の内にとどまっていなさい」と告げているのです。
 わたしたちは救われることを願って祈ります。それは自分だけではなくすべての人が救われることを願い祈ります。しかしわたしたちが出会う人々の中には、キリストの救いと神の愛を知らず、また拒否する人がいるでしょう。日本のクリスチャンは人口の1パーセント未満ですから、当然です。わたしも教会の外で出会う人々のほとんどが教会に一度も行ったことがない人です。牧師だって言っても「じゃあ結婚できないの?手で十字を切るの?神父さんってどうやってなるの?」と質問されます。それくらい日本ではキリスト教のことに無関心なのです。そのような世の中で、いざ宗教が関係する大事件が起こると、間違った認識が世間で広まり、わたしたちまでも同じものを信じていると疑われてしまいます。エフェソ共同体が偽教師によって混乱に陥っていた状況と一緒であります。その中では確かに正しい信仰を守り続けることは大変体力と気力が必要でしょう。日に日に減っていく礼拝出席数に心を痛めることもあるでしょう。世間の風当たりの厳しさに驚くこともあるでしょう。しかしヨハネは2章28節で大いにわたしたちを励まします。「そこで、子たちよ、キリストのうちにととどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生まれたものであることを、知るであろう。」
 神に背を向けて、偽りの言に耳を傾ける人は、神の前で恥じ入ることになりますが、主イエス・キリストを救い主と告白し、共に手を取り合うわたしたちは、神の御前に恥じいることがありません。それははっきり聖書に書かれています。主イエス・キリストはわたしたちの救い主であるという揺るぎない事実を初めから聞く私たちは本当に恵まれていると思います。そして歩んできた道が違っていても、同じ神と同じ救い主と出会えたことも恵みであります。わたしたちはこれからもたくさんの誘惑や疑念、偽証に惑わされることでしょう。しかしその時は神の言に耳を傾け、心を向けて歩んでいきたいと思います。そして一人でも多くの方が偽りの言から神の言に心を向けて、主イエス・キリストは救い主であると告白するよう願います。わたしたちが歩む道の先を主に向けていきましょう。

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