「不思議な風」 使徒行伝2:1~11

深谷教会聖霊降臨日礼拝(ペンテコステ)2024年5月19日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:使徒行伝2章1~11節
説教:「不思議な風」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-348
奏楽:杉田裕恵姉

説教題:「不思議な風」  使徒行伝2:1~11  佐藤嘉哉牧師

 ふしぎな風が びゅうっとふけば なんだか勇気が湧いてくる イエス様のお守りが きっとあるよ それはせいれいの はたらきです 主イエスの恵みは あの風とともに
 ふしぎな風が びゅうっとふけば いろんな言葉の人たちも その日から友達に きっとなれる それが教会の始まりです 世界の平和も あの風と共に
 ふしぎな風が びゅうっとふいて 心の中まで強められ 神様の子供にきっとなれる それが新しい毎日です 私の命も あの風と共に

 今読み上げました詩は、2002年に発行された「こどもさんびか改訂版」94番の「ふしぎな風が」というさんびかです。この「ふしぎな風が」はペンテコステの讃美歌として、子どもを対象とした礼拝で過去わたしがいた教会で歌われていたものです。ふしぎな風がぴゅうっと吹けば、勇気が湧いてくる、いろんな言葉の人たちともその日から友達になれる、心の中まで強められる。聖霊とはどのようなものか、それを受けた私たちはどうなるのか、子どもにもわかりやすく説明しています。
 しかしここで気を付けて見なければならないことがあります。どうぞお配りしました説教原稿をご覧ください。1番2番3番と見ていくと、気になる言葉があります。それは1番で言うと、「なんだか」勇気が湧いてくる。イエス様のお守りが「きっとあるよ」。2番は「ともだちに きっとなれる」3番は神さまの子どもに「きっと」と、不確定なことを言っています。これはとても面白いことです。主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりという、三位一体がついに実現したことを歌っているのに、「なんか」わからないけれど強められる、「きっと」来るんじゃないか、と言っているのです。
 聖書を見ていきましょう。本日の聖書の個所、使徒言行録2章1~13節は毎年ペンテコステ礼拝で読み上げられる箇所です。キリスト教の三大行事である「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」の内「クリスマス」と「イースター」は4つの福音書から事の次第が書かれていますが、「ペンテコステ」については使徒言行録の記述のみとなっているため、毎年牧師は説教について頭を悩ますと言われています。というのも、この「ペンテコステ」の短い文の中で時代の劇的な変化、常識の劇的な変化が起きており、それを私たちの現実世界で教え説くことがとても難しいからです。聖書に書かれていることが現実で本当に起こったのかどうかという議論と、ここに書かれていることを現代世界に置き換えて内容を捉えることは別の話です。ですから説教は後者の立場をもって語ります。聖書に書かれていることを私たちの生活にどのように取り込むのか。文献が多ければ多いほど、その方法はたくさんありますが、この聖霊降臨の出来事は一つしかないため、とても難しいのです。
 五旬祭はユダヤ教のお祭りです。イスラエルの民がエジプト脱出の出来事から50日目にシナイ山でモーセを通して受けた十戒を受け入れたことを記念するものでした。そのため、今日の聖書箇所にはユダヤ人が世界中からエルサレムにやって来ていました。世界に散らされていた民はそれぞれの国に住んでいたので、それぞれの国の言葉を使うのは当たり前です。しかしこのエルサレムに集まれば、全員ヘブライ語を使っていました。どの国から来ようが、ヘブライ語で神のことを賛美していたのです。この五旬祭を祝うため、多くの主イエスを信仰する者たちがひっそりと集まっているところに、突然激しい風が吹き、炎のような舌が分かれて一人一人の上にとどまったとあります。そして「霊に満たされて」それぞれの国の言葉で神を賛美し、主イエスのことを話し始めた、とあります。
 神を賛美する礼拝ではユダヤ教の教えにのっとって行うものなので、先ほど言ったようにヘブライ語を遣わなければなりません。しかしこの時のイエスを信じる者はそうではありませんでした。だからそれを見た人々はあっけにとられ、「いったい、これはどういうことなのか」、「あの人たちは、新しい葡萄酒に酔っているのだ」と言ったのです。
 霊に満たされた弟子たちは勇気に溢れ、それぞれの国の言葉を使い主イエスのことを語り始めました。これは海外伝道の始まり、一つの民族の宗教から世界の宗教になるきっかけとなりました。しかし同時に、迫害を激化させる原因ともなりました。隅には置けないユダヤ教の一つのグループという位置づけから、ユダヤ教の信仰そのものをひっくり返すような思想を持った一大勢力となったのです。自分たちの存在理由がなくなってしまう。芽は小さいときに摘んだ方がいい。そう思ったユダヤ教徒たちは弟子たちを始め、多くのイエス信仰者を迫害し、殺すこととなったのです。
 キリスト信仰者にとっては聖霊によって勇気が与えられたのに、歩む道はとても暗く苦しいものであったに違いありません。神と主イエスから受けた「勇気」によって行ったことが、逆に自分の命を危険にさらすこととなるとは、この時は誰も思っていなかったでしょう。このようなことが起こらなければ、多くの人の血が流れることもなかったでしょう。
 しかし、この迫害の歴史があったにもかかわらず、こうして今も教会があるのです。壮絶な迫害を受け、多くの人の血が流れても、信仰を守り続けたことによって、今私たちは礼拝し、神の愛と主イエスの恵みに生きることができます。こうなることは聖書が語る時代では想像もしていなかったことでしょう。しかし2000年という長い時間を歩む中で、その時その時与えられる恵みを糧にその時代の人々が信仰を継承し、変化し、今の教会を形成しました。これはひとえに、神の導きであり、霊の業であると思うのです。
 今から108年前、この深谷の地に小さな信仰の種が蒔かれました。この小さな種は実を結び、またその種が新たな種を生み、大きくなり、今の深谷教会の形が生まれたのです。今のこの教会の形を108年前のフレッド・アベル宣教師、菊地牧師、教会員が予想していたとは考えられません。ですがアベル宣教師、菊地牧師、教会員が蒔いた信仰の種は、強い聖霊の風に乗って多くの人々の心に埋まり、主の恵みによって萌え出で、その時代の流れによって形を変えつつ今日この日まで残り続けました。誰も未来のことを予想できないからこそ、信仰を燃やし、主の恵みにひたすら信頼して歩んできたのです。神のご計画で私たちの歩みが続いています。
 今から後、日本のキリスト教会は衰退すると考えられています。2030年代には今の教会の半分以上が信徒不足により縮小もしくは閉鎖されると考えられています。その足はとても速く、もうその兆しは見えています。教団はそのようなことが起きてはならないと必死になっています。確かに教団の信徒総数からすると、減少は止まっていません。しかし教会の中を見てみると、信仰に熱く燃えている方々がこんなにもいます。まだ信仰を告白するに至っていない方も、礼拝に参加し、時を共にしています。こんなにも恵まれたことがあるでしょうか。嘆くことはなく、むしろ喜ぶことだと私は思います。
 先のことは私たちにはわかりません。分かる手段もありません。だからこそ神にすべてを信頼し、委ねたいと思います。わたしたちは冒頭にお伝えしたこどもさんびかの歌詞のように「なんだか勇気が湧いてくるな」、「きっと神が助けてくれる」と「信じる」ことが大切だと思うのです。
 神は必ず私たちを助けてくださいます。これは紛れもない事実であり、皆さんも経験したことでしょう。それが自分の望み通りのことではなくとも、そのことを気づくことが大切です。信じ、気づき続けることができるよう、心を熱く燃やし、聖書の語る言葉に耳を傾けていきましょう。
 祈ります。
 天におられる私たちの神さま、私たちの心に信仰の火をともし、今日この日を迎えることができ感謝いたします。私たちがこの深谷教会、キリスト教会の群れとして歩めることに感謝いたします。私たちが歩む道はまだわからないことばかりです。ですが私たちはあなたの導きを信じ、歩み続けます。どうぞ私たちの祈りを聞いてください。そしてあなたに全てを委ねます。どうぞあなたの目に良いと映る教会となりますようお導きください。主イエスキリストの御名を通してお献げ致します。アーメン。

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