深谷教会降臨節第6主日礼拝2024年5月5日
司会:斎藤綾子姉
聖書:ヨハネによる福音書16章25~33節
説教:「今わかりました」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-481
奏楽:小野千恵子姉
注:説教の映像・音声がトラブルにより途中から始まりま・・・ご容赦ください。最初の方は下の文をお読みください。。
説教題:「今わかりました」 ヨハネによる福音書16:25~33 佐藤嘉哉牧師
わたしたちが聖書を読むとき、どのような気持ちで読むでしょうか。心が満たされたいと思い読むこともあれば、悩みの中にありどうすることもできないという思いの中で読むこともあるでしょう。悩みのないときは何も思わなかった聖書の言葉が、悩みの時に大きな慰めを与えてくれたこともあるでしょう。しかし、牧師としてそうした話を聞くとき、たまにその聖書の言葉が自分の思いにつながりすぎていることがあります。「あれ?ここってそういうことが書かれているの?」と思ってしまうこともしばしばです。聖書を読むとき、それは目と脳でその文字を読み、理解しようとします。自分のことを正当化しようと、聖書の言葉を用いることもしばしばです。
わたし自身もそのような経験があります。神学部在学中に受けた説教演習ゼミで、好きな聖書箇所の説教をするという課題が与えられました。わたしはその時「人前でしゃべることはこのゼミを受けている人たちの中で一番慣れている」という自信がありました。そして文章を書くことも得意だと思っていました。好きな聖書箇所で説教を考えてきて、いざ説教をすると、最初は好印象な意見を受けました。そりゃあそうだ。人前で喋ることは得意だし文章を作るもの得意なんだから!と自分自身を誇りに思いました。しかしその後にある学生が「佐藤くんが言っていたこの部分、聖書に書かれていますか?書かれているならどこからの引用でしょうか?」という質問が出ました。その質問にわたしは答えられませんでした。なぜなら自分が説教だと思っていた文章は、聖書の言葉を引用した自分語りで、自分の意見を誇るものであったからです。そう思っていなくても、言葉のひとつひとつから滲み出てきます。答えられないわたしを見かねて教授が「言葉は面白いしユーモアもたっぷりだった。でもこれは説教とは呼べない。説教は聖書の言葉を説くものであり、聖書に書かれていないことを伝えるものではない。自分の想像であるならそう告げるべきだ。自分の想像を押し付けるような内容は絶対にしてはいけない。」と言いました。もう目からうろこと言いましょうか、自分の聖書の読み方が180度変わる出来事でした。そして同時に自分の愚かさを恥じることとなったのです。
聖書の言葉を読むとき、それは目と脳で文字を認識します。しかしそれは人よって大きく形を変えてしまいます。それはとても危険なことです。2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生し、それを起因としたイラク戦争がはじまりましたが、その戦争を始める際、アメリカ国民に対して当時の大統領ブッシュは聖書の言葉を用いて、「この戦争における正義はわれら国民にあり」と言ったのです。聖書にそんなこと書いてなどいません。聖書に書かれている内容を自分勝手に解釈することは本当に大きな危険があるのです。
主イエスは数多くのたとえ話を話され、また先週説教で伝えた聖書箇所でのような比喩を多く語りました。そのたとえ話や比喩を語った理由はマタイによる福音書によれば、天の国のことを人々にわかってもらうためであります。しかしそれを聴いていた民衆は自分勝手にその話を解釈し、神の愛と天の国のことを理解しようとはしませんでした。そのため主イエスは民衆に向かってたとえ話や比喩を使って話をすることはせず、弟子にのみするようになりました。本日の聖書箇所は13章から続く、受難前の別れの説教の締めくくりです。ここまでたくさんのたとえ話と比喩を話されていた主イエスは、突然「それはもうすることがなく、神のことを話して聞かせる時が来るであろう。」と言います。これは紛れもなくこの後に起こる受難と十字架での死と復活を指しています。これから起こる出来事の意味をここで伝えているのです。弟子が「あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」と告白しますが、主はそう弟子が答えることも、そして自分を見捨てることを知っていたので、「あなたがたは今信じているのか。」と言います。立派なことを言って、心配している主に良いところを見せようとする弟子たちのことを戒めるのです。どれだけ長い別れの説教をしたところで、そのような態度を見せる弟子たちに呆れのようなものをこの「あなたがたは今信じているのか。」という言葉から感じます。
弟子たちのこの態度は今に始まったことではありません。新約聖書における弟子たちは主イエスの伝える言葉一つ一つに言葉を返したり、主イエスのなさることにいちいち物申したりする姿がたくさん出てきます。特にペテロがそうです。彼は主イエスを誰よりも主とあがめ、寝ても覚めても主イエスのそばにいました。しかしそんなペテロこそ、主イエスのそばで誰よりも良い恰好をする人であったのです。結局この弟子たちは主イエスの十字架の前から逃げて隠れてしまいます。弟子たちがどれだけ立派なことを行い、「あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」と言おうとも、心の奥底ではそのような思いがあるのです。その弟子たちの思いを知っている主イエスは「あなたがたは今信じているのか。見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。」と言います。主イエスが十字架にかかる際の弟子たちの姿が伝えられています。ペテロだけではなく、イスカリオテのユダもその場にいました。そのユダがこの後自分を裏切ることを主イエスは知っていました。だからこそ、ペテロもユダも含む弟子たちが「あなたが神からこられたかたであると信じます」という告白が真実ではないことも知っていたのです。それぞれ自分の家に帰り、主イエスをひとりだけ残す時がすでに来ている、という言葉も、この弟子たちの姿を通して言っているのだとすれば、理解もできると思います。
33節をご覧ください。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」という言葉でこの説教を終えています。弟子たちはこの言葉をどのように受け取ったのでしょうか。「あなたがたは、この世ではなやみがある。」と言われた時、弟子たちは驚いたことでしょう。なぜなら弟子たちは主イエスについていけば新しい聖書の理解が得られ、多くの尊敬を得られると思っていたからです。そう思っていなければ「誰が弟子の中で一番偉いか」という議論が起こることもないはずです。この言葉の後に弟子たちがどう思ったかは聖書に書かれていませんから、想像の域にとどまります。ではこの聖書の言葉を読んだとき、わたしたちはどう思うでしょうか。深い慰めと希望が与えられたと感じるのではないでしょうか。なぜならわたしたちは既に神に捕らえられ、主イエスの贖いと愛によって生きることができているからです。この時の弟子たちとは違い、もう既にその十字架がわたしたちの内にあります。ですから神と主イエスの前で「今わかりました」といい姿を見せる必要はありません。主イエスは最後にこの説教を話したのは「わたしにあって平安を得るためである。」からと述べています。この世界は不条理に満ち、悩むこと、苦しむことがたくさんあります。できるならばそのようなことを経験したくないと願うものです。しかし苦しみはどれだけ遠くへ逃げようとも向こうからやってきます。その中で弟子たちのように散り散りになることなく、主の内にあって歩んでいけるようにしていきたいと思います。最後にヨハネの第一の手紙5章4節5節を読みます。「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」この世の苦しみや悩みがあっても主イエスを信じ、愛に生きる私たちは世に勝つ力が与えられるのです。感謝して歩んでいきましょう。