深谷教会復活節第5主日礼拝2024年4月28日
司会:渡辺清美姉
聖書:ヨハネによる福音書15章18~27節
説教:「愛することの難しさ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-493
奏楽:野田周平兄
説教題:「愛することの難しさ」 ヨハネによる福音書15章18~27節 佐藤嘉哉牧師
おはようございます。
毎年若者、特にZ世代と呼ばれる10代から20代前半の男女の間で流行した言葉のランキングが発表されます。2022年の3位は「ジャンボリミッキー」、2位は「サイレント」、1位は「チグハグ」でした。3位の「ジャンボリミッキー」は東京ディズニーランドやディズニーシーで行われる子供向けのダンスショーで流れる曲の名前で、2022年の紅白歌合戦でもダンスパフォーマンスが行われました。2位はよくわかりません。1位の「チグハグ」は人気男性歌手チームの曲名だったそうで、私でもいまいち意味が分かりません。
そして2023年は3位が「ちいかわ」、同名の漫画を原作とする言葉をしゃべる小さな動物たちが一生懸命働くアニメが人気になっています。ちなみにこの「ちいかわ」はわたしも好きです。2位はよくわからないので省略します。そして1位は「蛙化現象」でした。ケロケロ鳴く蛙です。2022年や2023年の2位までの流れと全く違う、4文字の漢字です。一体なんだこれはと気になり調べてみました。「蛙化現象」とは主に若者の女性の間で起きる恋愛感情を指すそうで、そこにも2つの意味があるそうです。ひとつの意味は、好きな相手の嫌な部分が見え、知ってしまった瞬間から「好き」という感情が冷めてしまうというものです。わたしたちの言葉で言えば「引く」とか「げんなり」という言葉に近いでしょうか。もうひとつの意味は、好意を抱いていた異性が自分に注目してくれるようになると、その人を不快に感じたり、遠ざけたりしてしまう現象のことだそうです。由来はグリム童話「カエルの王様」からだそうで、王様には好意を抱いていたのに蛙になってしまうと憎悪感を抱いてしまう。その感情と同じであることから「蛙化現象」と呼ばれるようになったそうです。本来の意味としては最初の説明、「好きな相手の嫌な部分を知ると愛情が冷めてしまう」という意味の方を指し、心理学等で昔から使われていたそうです。そして2つ目の「意中の相手から好意を向けられたら途端に嫌いになってしまう」という意味の方が若者には浸透しており、今では「蛙化現象」といえば2つ目の意味を指すそうです。そんなことがあるのか?と思う方もいるでしょうし、もしかするとここにいる方々も経験したことがあるかもしれません。わたしはというと、それこそ若いころ、といっても20代前半に「蛙化現象」を経験したことがあります。今となれば良くも悪くもそういった感情を抱くような相手もいたらいいのですが…。また教会でもこれは無視できない現象でもあります。例えば牧師の嫌な部分を知ってしいその牧師が嫌で嫌で仕方がなくなってしまう。またすごく好きな牧師から優しく声をかけられたら途端に顔も見たくなくなってしまう。家族同士でものすごく仲がいい信徒どうしが、聖書の読み方が自分と違う、祈りの言葉で気になることを言っていたと思った途端に距離を置きたくなってしまう。そういった感情が少なからず起きてしまいます。これは人の感情ですから抑えることはできませんし、一度そういう感情を抱いてしまうとなかなか抜け出すことができません。それはわたしたちのこの教会でも起こりえることであるのです。私はまだ経験も浅く欠けの多い者ですから、時に驚いたりわたしの言葉でつまずきを覚えてしまったりすることも起きるかもしれません。そのようなことがないように細心の注意を払っていこうと思うものです。
本日の聖書箇所には衝撃的な言葉がたくさん書かれています。特に印象に残る言葉があります。それは「憎む」です。なんとヨハネ福音書15章18節から27節の間だけで7回も使われています。ヨハネ福音書には「憎む」という言葉が40回も使われているそうですが、その40回の内7回も使われているのです。なぜこの「憎む」という言葉がことさらこの18節から27節の中に使われているのでしょうか。その理由としては、15章12節から続く主イエスの言葉「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という戒めがあるからです。15章12節から17節をお読みします。
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。
主イエスは互いに愛することを弟子たちに伝えました。というのもこの主イエスは間もなく自分が苦しみを受け十字架につけられることを悟り、愛する弟子たちがつまずくことがないようにという思いで話されたからです。主イエスが十字架につけられ死なれた後に起きたことは皆さんもご存じの通りと思いますが、弟子たちにとって重く、暗く、苦しいことが絶えず起こりました。先週お話ししたペテロはその代表ですし、後に迫害者から使徒となったパウロも迫害を受け、牢獄に入れられ、多くの病に罹り、最後の最後まで苦しみの道を歩みました。まさしく「憎しみ」の道を歩まれたのです。なぜこのようなことが聖書に書かれているのでしょうか。聖なる書物であるはずなのに、読めば「信じたものは救われるどころか人々に憎まれ、苦しむ姿がたくさんあって救われる気持ちにならない」と思うのも仕方がないと思います。しかしそこにこそ救いがあるとヨハネ福音書の記者は述べています。このヨハネによる福音書が書かれた時代、当時のキリスト者は主イエスを救い主と信じているだけでひどい迫害を受け、不当な裁判の末処刑されたり、集団から石を投げられたりして命を落とすことがある、非常に残酷な現実の中を歩んでいました。23節の「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む」という言葉はこの時代のキリスト者の現状を反映した言葉であると思います。迫害する人々にはこの意味がわかるはずもありません。心が神から離れてしまっているからです。自分たちがどれほど神を愛し、心を向けて律法の言葉を守っても救われたと思えない。なのになぜあのナザレのイエスを救い主と信じる人たちはあんなに救われたと思っているのか。あんな死に方をしたナザレのイエスによって選ばれたと手放しで言えるのか。そういう思いが積もりに積もって憎しみへと変わり、神の言葉を無視して理由なしに憎むようになるのです。「蛙化現象」でいう、自分がどれほど愛する相手でも、自分の気になること、嫌な部分が見えてしまうと愛情が冷め憎悪を抱く感情と一緒であると思います。言えば新約聖書における主イエスとユダヤの人々はこの「蛙化現象」に陥っていたと言っても過言ではありません。2000年前にあった主イエスの受難での民衆の感情は今のわたしたちにも通じているのです。
今でこそわたしたちは主イエスを信じているという信仰によって不当な差別を受けることはありません。キリスト者であるからという理由で世の中から憎まれることもない。そう思うかもしれません。しかしそれは表面的なもので、世の中はあまりにもキリスト教や神と主イエスの存在に無関心であると思います。自分は関係がない。自分には神は必要ない。そう思っている人々があまりにも多くいます。そしていざその人たちに聖書の話をしようと近づくだけで拒否反応を起こす。無関心であったのにいざ世間を混乱に陥れるような事件が起こり、その要因が宗教に関連するものであればその言葉一つ一つに敏感になり、まったく無関係のものであっても一緒にして危険視する。まったくもって無関心であります。日本は宗教の自由が認められていて、その宗教は迫害を受けることないという意見がありますが、それは違います。わたしたちのこのキリスト教において「無関心」であるということは「憎む」ことと同義であるのです。愛の対義語は無関心であるという言葉がある通りです。その世の中を私たちがキリスト者として歩むとき、それは目に見えない形での迫害が起きているといっても過言ではありません。その世界をどう愛するべきかと悩むこともあるでしょう。しかし聖書に語られている通り「自分のように隣人を愛しなさい。互いに愛し合いなさい」という言葉が与えられています。愛することの難しさはだれもが知っています。その愛を持って接しても、憎しみが返ってくることもあることを私たちは知っています。神と出会わなければもっと生きやすく過ごせたのではないかと思うこともあるかもしれません。たしかにそうですね。普通に過ごしていたら思い悩む必要のないことを思い悩むのですから。ですがこれまでの歩みを振り返った時、キリスト者として歩まなければどうなっていただろうかと思うことがたくさんあると思います。そしてその歩みは神と主イエスキリストの愛に溢れたものであったと気づくのです。なによりもまず神と主イエスの愛は変わることがありません。神の愛は「蛙化現象」にはならないのです。むしろ以前にもまして与えられるのです。
キリスト者の詩を最後にお読みしたいと思います。「足跡」という題の詩です。
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
聖書は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と勧めます。詩にあるように辛い思いをしている人を背負って歩きなさいということです。それはとても大変なことであります。そして時にそのように接しても憎まれることがあるかもしれません。愛することの難しさを感じます。しかしその瞬間、その人には気づくことがなかったとしても、わたしたちと同じように神の愛、キリストの愛に気づくことが必ずあります。その時にわたしたちが立ち会えることこそ、本当の喜びであり救いであり、愛であるのです。ともにこの喜びに立ち会えるようにこの世へと愛を持って歩みだしたいと思います。