「最後の晩餐から最初の朝食へ」 ヨハネによる福音書21:1~14

深谷教会復活節第3主日礼拝2024年4月14日
司会:悦見 映兄
聖書:ヨハネによる福音書21章1節~14節
説教:」最後の晩餐から最初の朝食へ」
    佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-575
奏楽:小野千恵子姉

説教題:「最後の晩餐から最初の朝食を」 ヨハネによる福音書21:1~14  佐藤嘉哉牧師

 今日はテべリアの海辺でペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ら、ふたりの弟子が復活の主と出会う場面に思いを巡らしたいと思います。ペテロはご存じの通りもとは漁師でありましたから、弟子としての歩みが終わったら漁師としてまた生活することになります。ほかの弟子たちもそうだったのでしょう。テべリアの海辺はガリラヤ湖とも呼ばれています。マタイによる福音書4章18節以降で、主イエスがガリラヤ湖で漁をしていたペテロ、ヤコブ、ヨハネらに「人間をとる漁師にしよう」と語りかけ、彼らは従ったことが書かれています。今日の箇所はその再現と言えます。
 このヨハネ福音書は20章で一旦福音書としての記述を終えています。しかし21章では復活の主による新たな展開があります。ヨハネ福音書記者が一度20章で筆をおきますが、その後の時代に編纂記者がこの内容をとりわけ特別視して付け加えたと考えられています。全体を見ると21章は流れの中で浮いたものであるように思います。しかしこの内容はヨハネ福音書が読まれていた時代の人々にとって大きな慰めとなっていたのではないかと思います。
 ペテロ・トマス・ナタナエル・ゼベダイの子らと二人の弟子が漁に出ますが、その夜は何も獲れませんでした。魚が獲れないことは彼らにとっての死活問題です。お金がもらえず食べ物もありつけない。聖書では簡単に「なんの獲物もなかった」と書いてありますが、彼らは大いに焦ったことでしょう。当時の漁は夜になると海辺に集まってくる魚を獲っていたので、「その夜はなんの獲物もなかった」というのは、夜通し網を打っても獲れなかったということです。夜が明けたころにはもう冷静さを欠く状況だったのではないでしょうか。復活の主が岸に立ち弟子たちに声をかけたのに、それがイエスであるとは知ることも気づくこともできないほどであったからです。一度ならず二度も復活された主と会っているのにも関わらずです。「子たちよ、何か食べるものがあるか」という質問に「ありません」とそっけなく答えるのも彼らの焦りを感じます。
 わたしはこの焦りを感じたことがあります。昔、わたしは祖父と一緒にワカサギ釣りに行ったことがあります。北海道の稚内市にある湖の氷の上にテントを張り、氷に直径15センチほどの穴をあけて釣り糸を垂らします。ワカサギが食いつくと釣り竿の先がピクピクと動くんです。その時を今か今かと待つのが楽しいのですが、ある時その釣り竿が全く、本当に全く動かない日がありました。待てども待てども動かない。撒き餌さをしても一向に来ない。昼過ぎから5時頃までやったのですが、それでも釣れない。やっと動いたと思い釣り竿を引っ張ると、ワカサギではなくカレイだったりウグイだったり…。外はどんどん暗くなってくる。本当に釣れなくて退屈で、「このまま一匹も釣れずに終わるんじゃないか。たくさん釣って家に持って帰って、ワカサギの天ぷらをたくさん食べる計画だったのに…」という焦りが湧いてきたのです。
 「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」と復活の主が言われました。本来の弟子たちなら「なぜ右に網をおろすのですか」とか「あなたは誰だ」と言うかもしれませんが、この時は素直に従います。彼らが従順になったと読み取ることができるかもしれませんが、以前の状況からすると、もう反論したりする気力もない状態だったのかもしれません。彼らは言われるまま舟の右に網をおろすと、魚が多く獲れました。イエスの愛しておられた弟子、すなわち福音書記者ヨハネのことですが、そのヨハネがペテロに「あれは主だ」と言います。わざわざペテロにそう言ったのは何故でしょうか。想像の範囲ですが、ペテロは主イエスの受難の日に3度主イエスを否定した負い目を感じていたから、ヨハネが「主イエス本人だぞ」と彼に忠告したのではないかと思います。結果ペテロは裸だったからという理由も書かれていますが海に飛び込んでしまいます。ほかの弟子たちと一緒にいたので今更恥じることもないだろうと思うのは私だけでしょうか。裸を恥じたから主イエスの前には立ちたくないという思いだけが、海に飛び込む理由なのでしょうか。
 このペテロの行動に見覚えがあります。旧約聖書創世記で、知恵の実を食べたアダムとエヴァが互いに裸であることに気づき、いちじくの葉を纏い、様子を見に来た創造の神から隠れてしまったという場面です。この時のアダムとエヴァの心境は自分のしてしまったことの愚かさ、恥、自責の念でした。ペテロが裸であったことを恥じて海に飛び込んだとありますが、おそらく彼にもこのアダムとエヴァ同様の自責の念があったのだと思います。福音書記者はアダムとエヴァの記述をこの復活の主と出会う弟子たちの姿に合わせ、その主こそ救い主であり三位一体の神であるということを証しているのではないかと思います。
 さらに主は弟子たちと食事をされました。朝食です。主イエスが弟子たちと受難の前夜、最後の晩餐を守ってから最初の朝食を共に守ったということです。即ち主イエスは完全に肉体を伴って復活されたことを表しています。この事実を目の前に、疑い深いトマスも頑固なペテロも、ほかの弟子たちも目の前にいる人物が主イエスであることを疑うことがありませんでした。
 この21章における復活の主と弟子たちとの再会は非常に思慮深く、愛に溢れたものであると感じます。主と再会した弟子たちの心理描写が鮮明に見えてきます。それを象徴しているのが時間です。最初に弟子たちは漁をするため夜に行動を起こします。夜通し網を打っても魚が獲れなかった。彼らの暗い心情が見えてきます。そして夜が明けると復活の主が現れ、彼らの暗い気持ちを晴らしてくださる様子がわかります。夜明け前の空が一番暗いということは皆さんもご存じかと思います。まさに復活された主と出会うまでの弟子たちの心は、夜明け前の空のようでした。しかし復活の主と出会うことによって、朝日のように明るい気持ちになるのです。最後の晩餐から最初の朝食を守る。この間にあったつらく苦しい出来事も、復活の主が共におられるというただ一つの真実の前には無へと消えていくのです。
 わたしたちも復活の主と出会うまでは暗く、つらい道ばかりを歩んできました。この暗く辛い道がどこまで続いているのかと不安でいっぱいの日々を歩んできた方もおられるのではないかと思います。それが仕事のことであったり、人間関係であったり、ご家庭のことであったり…。人と人とが交わる時良いことも悪いこともたくさんあるでしょう。またペテロのように自分の愚かさ、罪深さを背負って歩んでおられる方もおられるでしょう。自分の力ではどうすることもできないことを目の前に暗い気持ちになります。しかしそのような私たちに主イエスは手を差し伸べ、食事へと招いてくださるのです。魚を食べ、割かれたパンを渡される喜びに満たされます。キリスト教はその初めから食事と共にある宗教でした。共に一つのパンをいただき、ひとつの盃から飲むことが礼拝の始まりです。初代教会の信徒たちは主イエスのからだと血と復活の主イエスの生命を分かち合うことで、共に生かされ歩んだのです。最後の晩餐から足を止めてしまった弟子たちでしたが、主イエスと共に守る朝食を通して希望に満たされたのです。私たちもその食事へと招かれています。その喜びを共に分かち合いながら、これからの日々を歩みたいと思います。

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