「あなたがたに平和があるように」 ヨハネによる福音書20:19~31

深谷教会復活節第2主日礼拝2024年4月7日
聖書:ヨハネによる福音書20章19~31節
説教:「あなた方に平和があるように」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-516
奏楽:野田治三郎兄

説教題:「あなたがたに平和があるように」   ヨハネによる福音書20:19~31     佐藤嘉哉牧師

 空になった墓へと向かったペテロ・もう一人の弟子・マグダラのマリア3名が、主が復活されたことに気づいていないこと、そして目で見るまでは物事を信じることができないことです。これは本日の聖書箇所にも共通しています。
 弟子たちが集う家の中に突然主イエスが現れ、「安かれ」と言われ、手とわきとを彼らに見せた主イエスの顕現は大変印象的です。「ユダヤ人を恐れ、戸を堅く閉ざす」とは、弟子たちの心の有様を見事に象徴的に物語っています。自分に凝り固まって、他を寄せ付けず、周りを遮断する様子です。恐れて、鍵をかけ、自分自身ががんじがらめになっている。そのような状況に主イエスが現れ、「安かれ」と言われました。心を固く閉ざした弟子たちにそっと「安かれ」と言われるのです。「安かれ」と聞くとわたしたちはある讃美歌を思い出すでしょう。讃美歌532番「やすかれ、わがこころよ」です。この讃美歌に多くの方が癒され、励まされたことでしょう。痛みも苦しみも主イエスが一緒にいて下さるから耐えられない悩みはない。わたしたちの信仰そのものであります。皆さんが今読んでいる口語訳聖書には「安かれ」とありますが、これはヘブライ語で「シャローム」と書かれています。この「シャローム」には「あなたがたに神の安らぎと平和があるように」という意味で、ユダヤの人々の挨拶です。日常的に今でも使われています。弟子たちが心を頑なにしてしまい、他を拒絶していたところに復活の主イエスが現れ「安かれ」という。大いなる慰めがここで表れています。
 この場に居合わせていなかったデドモと呼ばれているトマスも心を頑なにする人物として登場してきます。心を頑なにするとは、物事を冷静に見たり信じたりすることが出来なくなるのです。
 8日たった日に主イエスはトマスの前に現れ、手とわきの傷を見せました。復活の主イエスをその目で「見」たトマスは触れて確かめることもなく、「わが主よ、わが神よ」と言い、復活の主を信じたとあります。
 今まで登場したマグダラのマリア・ペテロ・弟子たち・トマスは主ご自身と出会うことで「見」て信じたことがわかります。「見る」とはとても印象深くあります。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」との主イエスの言葉は、まさに彼らの信仰を示していると思います。いいえ、彼らだけではありません。当時の主イエスを囲むすべての人が、主イエスのなさる奇跡・姿を「見て」信じていました。見ずに信じた人々がいなかったわけではありませんが、目で「見て」信じた人々の方が大半で、主イエスのそばに立ち、わが主よ救い主よと言ってあげ祀り、いざ自分たちの思いと違うことを主がなされた時には疑いを立て、十字架につけろと叫び、挙句の果てには十字架の上にいる主イエスから逃げ出してしまったのです。彼らにとって信仰は目に見える形に依存していたのです。
 しかし復活の主との出会いによって、彼らの信仰は劇的に変わりました。主イエスは復活した後天に上り、神の右に坐ると以前主イエスが言った通りになるのです。そうなれば主イエスご自身の姿や奇跡というものを目で見ることはできなくなります。そうなれば信仰がなくなるのではないかと思いますが、そうはなりませんでした。主イエスは聖霊を彼らに与えたのです。弟子たちに、主イエスを求める人々に聖霊が与えられたのです。目で見る信仰から見えない信仰へと変わりました。彼らにとって生き方そのものが変わったのであります。その目に見えない信仰が2000年続き、今わたしたちの信仰へと受け継がれています。
 わたしたちの生活は目に見えるものに依存しています。スマートフォンを見ることによって人とのつながりを感じる昨今です。わたしたちは平和を求め祈りますが、その平和も見える形でなければ信じることはできません。戦争がない状態だけが平和ではないのです。新たな牧師が着任したことによって、新しいことが始まることをわたしたちは期待します。それはとても大切なことです。私自身も深谷教会に着任して、どうやって牧会をしていこうかと考え、また皆さんと話し合いながら実行していこうと思っています。しかしそればかり追い求めていると、牧師中心の自分よがりなものになってしまいます。わたしたちこそ目で見えるものばかりでなく目に見えない心の「平和」「平安」をも同時に、大切にしていかなければならないと思います。主イエスがわたしたちを導いてくださる。「安かれ」とわたしたちに出会って下さる。そのことをわたしたちは今一度思いめぐらし、ただ主イエスを追い求めて歩むものとなるべきであると思います。わたしが着任して最初の説教で、この箇所を語るように導かれたのも神と主イエスです。全てが導きと支えであります。
 世の中は不条理に満ちています。決して平和とは言えない現実を前にわたしたちは無力で、その不条理に心を乱されてしまいます。そう感じるからこそ、「やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます。痛みも苦しみをも、しずかに忍び耐えよ。主イエスのともにませば、耐ええぬ悩みはなし。」という讃美歌の言葉も、「安かれ」「あなたがたに平和があるように」という聖書のみ言葉も、一つ一つが心に響きます。主イエスが共にいて下さる。それは目に見えませんが、心でそう感じているからこそ力が湧いて来るのです。
 ではわたしたちはどうしたらよいのでしょうか。信じればはい、それで終わりというわけにはいかなくなります。では献身して人々のために尽くすべきなのでしょうか。そうであっては、もし人々のために尽くすことが困難な方がいれば、その人々を排除してしまいます。説教の後に歌う讃美歌516番の3節にそのヒントが書かれていると私は思います。「み声に応えた聖徒たちの歩みに従い、わたしたちもまた主の名を身に帯びて進もう」とあります。目で見える信仰から目に見えない信仰へと変えられた弟子たち、聖徒たちは主の名を身に帯びて進まれ、多くの人々の心を癒し、生きる希望と平和を与えました。復活の主と出会いわたしたちも目に見える物から離れ、目に見えない神と主イエスの名を身に帯びて進むことが赦されています。新しい課題も日々のわざも十字架を負われた主が与えられた勤めとして励んでいくことこそ、わたしたちの歩みであると思うのです。
 この教会の成り立ちもそうでした。病を治すことは医学でできますが、心を癒すことができるのは神と主イエスキリストです。聖書のみ言葉に癒された人々の信仰が基となっています。日々癒され平和の中を生きることに感謝を捧げる。そして主の名を身に帯びて進むこと。それこそが深谷教会に連なる私たちの道です。
 目で見えるものばかりでなく、目に見えない主イエスによる平和をわたしたちも感じ、心の中を穏やかにし、主の名を身に帯びて歩む。そのような日々をこの1週間歩んでいきたいと思います。

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