「復活の主を信じる」 マタイによる福音書28:1~11

深谷教会イースター礼拝(復活日)2024年3月31日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:マタイによる福音書28章1~11節
奉唱:シャロンの花 聖歌隊
説教:「復活の主を信じる」
   法亢聖親牧師

説教題 「復活の主を信じる」     マタイ28章1節~11節       
 
 復活の使信は、神さまは生きておられるということです。私たちの主イエス・キリストは、墓を越えて生きていますということです。その証拠に、「恐れてはいけません、ここにはいらっしゃいません、よみがえられたのです」(マタイ28:6,7)と御使いが告げ、その復活の出来事を見、体験した弟子たち(証人たち)がこの福音書を記しているのです。
 主イエスは、真(まこと)の命・永遠の命によみがえられ、弟子たちにお会いして下さったのです。そして弟子たちにまた私たちに真(まこと)の命を与え、希望を持って生きる命を与えて下さったのです。「わたしは、よみがえりであり、命です。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)との主イエスの御声が心に響きます。復活の主を信じ受け入れた者には、この世の命が終わっても永遠の命が与えられているのです。しかも主イエスは、「ごらんなさい。わたしは、この世の完成まで、いつの日でもあなたがたと一緒にいるのです」(マタイ28:20)と告げ、また「わたしにガリラヤで会える」と御使いを通して弟子たちに告げています。弟子たちにとってのガリラヤは、生活の場です。私たちの復活の主は、今も生きて働かれ、私たちの生活の場でお会いして下さるのです。
 復活とは、再び生きることというより、新たに生まれかわって生きることです。それは、死んで生きることを意味しています。「私の言葉を聴いて、わたしをつかわしたお方を信ずる人は、永遠の命を受け、またさばかれることなく、死から命に移りました」(ヨハネ5:24)と主イエスが告げられました。したがって、復活を信じる者は、それに先立つ「死」を考える必要があります。なぜ死は、恐ろしいのでしょうか。
「地は、形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」(創世記1:2)創造の初め世界は混沌であったと記されています。死とは、否定の力、虚無そのものだからです。奈落の底に吸い込まれるように暗闇を恐れるのは、創造の初めの虚無を恐れているからです。そうです。私たちは、神の創造以前の虚無に帰ることを恐れているのです。
 神は、その混沌の世界を、御言葉を持って秩序ある光の世界に創造されました。主の復活の出来事は、この私たちの死への恐れを打ち消す喜びの出来事なのです。死の向こう側、主イエスの負われた十字架の死の向こう、墓の先には、栄光の世界が備えられているとの神さまからの喜びの宣言です。十字架の死と復活によって神さまの救いの御業を成し遂げられた復活の主を信じる者は、みな神の国の世継ぎとされ、私たちの本当の故郷・本国、神の国に帰ることができるのです。復活の主を信じることによって私たちは、死んだら終い、虚無に帰るという恐れから解放されるのです。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされていく」(Ⅱコリント4:16)古い我を十字架につけて死に、新しく生まれかわらせていただき、聖霊と御言葉とによって日々エゴを打ち砕いていただき、内なる人(霊・魂)を成長させていただきつつ、永遠の命を復活の主の証人として生き生きと生きていきたいものです。

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