「一粒の麦が死ななければ」 ヨハネによる福音書12:20~26

深谷教会受難節第5主日礼拝2024年3月17日
司会:渡辺清美姉
聖書:ヨハネによる福音書12章20節~26節
説教:「一粒の麦が死ななければ」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-412
奏楽:野田周平兄

説教題 「一粒の麦が死ぬ時」  ヨハネによる福音書12章20節~26節     

「はっきり言っておく。『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』」(ヨハネ12:24) 
 本日の御言葉は、主イエスの最後のエルサレム入城を果たされた当日に起こった出来事が語られています。主イエスが十字架につかれる週のはじめの日の出来事です。エルサレムに入城された主イエスのもとに数人のギリシア人が訪ねて来たと言うのです。ギリシア人とは当時の異邦人の代表ですべての外国人を意味しています。このことは非常に重要なことだと思います。主イエスがその週の金曜日に負われる十字架が主の民イスラエル人のためだけではなく、すべての異邦人のためでもあることを指し示しているからです。
 ギリシア人即ち異邦人が訪ねてきたことを弟子たちを通して伝え聞いた主イエスは、次のように答えられました。「人の子が栄光を受ける時が来た」と。ヨハネ福音書における「栄光」とは、「挙げられる」ということを意味しています。このことばには、2つの意味があります。一つは、「天の父が居られる神のもとに挙げられる」と言うこと、もう一つは「十字架の上に挙げられる」ということです。ヨハネは、前者の復活をして天に挙げられ神の右に座すことによって栄光を受けられるということではなく、後者の十字架に挙げられることによって、もうすでに栄光を受けられるというのです。なぜ十字架それ自体が栄光なのでしょうか。その答えが本日の御言葉の核心として語れているのです。「一粒の麦」と言う言葉がそれです。主イエスは言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。主イエスは、一粒の麦が死ぬ時多くの実を結ぶと言われましたが、分かるようで分かりにくいとても不思議なお言葉です。
「ツタンカーメンのえんどう豆」の話は、大変有名です。20世紀のことですが、エジプトの王家の墓から黄金の棺と共に多くの装飾品が発掘されました。その中の一つに食料品が入れられていた籠(かご)の中に5つのえんどう豆の種が入っていました。研究過程の中でその種が発芽したのです。そしてツタンカーメンのえんどう豆の種は、世界中で育てられることとなったのです。私も王子教会にいた時、ご近所のお米屋さんの奥さんから種をいただいて育てた記憶があります。普通のえんどう豆の花は、白色ですが、ツタンカーメンのえんどう豆の花は、紫色でした。3300年間ツタンカーメンのえんどう豆の種は、種のままでした。そうです。種は、蒔かれて初めて発芽し多くの実を結ぶのです。麦の種も同じで、麦の種は、芽吹(めぶ)き育っていく時、「一粒の麦」は元の麦の種の形を失います。その意味では、確かに麦の種は、自らの姿を失い、自らを捨てて別のものになり、さらに多くの麦の種を実らせるために、自分自身を失うことになるのです。そのような意味から、一粒の麦が死に、それによって新しい数多くの麦を実らせることによって、それは多くの命を生み、新しい時代を切り開いていくものとなるということを、主イエスはおっしゃっておられるのだと思います。
「一粒の麦」に続く言葉は、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世の自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」というものです。それは、「自分の命を愛する」ということは、今、あるがままの自分をすべてだと思い込み、それを失うまい、それを守ろう、それにしがみつこうとするならば、人はかえって永遠の命を失うと言うことを言っているのではないでしょうか。反対に、「自分のこの世の命を愛することにのみこだわる(固執する)生き方を捨て」、キリストの歩みに自らの歩みを重ね合わせ、自分がすべてであるという生き方を捨てる時、私たちは、今は見えませんが、やがて明らかになる「永遠の命」、「本当の自分自身の命」を与えられるということなのだと思います。
 自分を捨て家族や友のために生きる時私たちの命は、家族や友の内に蒔かれ家族や友の内に生き且つ家族や隣人を生かすのです。言葉を換えると、家族や友を愛して生きる時、私たちの命はそれらの人の内に蒔かれた種のように発芽して豊かな命の実を結ぶのです。そして究極的には、私たちは大いなるお方を、心を尽くし力を尽くして愛し生きて行く時に私たちの命はより大きな命の中に溶け込んでいくのです。「生き方上手」の著者日野原先生流に言うならば次のようになります。「命の価値は、物でも、名誉でも財産でもなく、精神的な内容そのものでありましょう。私たちの肉体は、その精神、魂を保つための入れ物、土の器に過ぎないのです。そう考えつめていくと、人のいのちは、決して自分自身のものではなく、愛する人、親や子、友人、さらに多くの社会の人々にとって役立てていかなくてはならないものであることが分かってくるのです。自分の命がなくなっても、私たちは自分のいのちを人の命の中に残していくことができるのです。そしてまた、私たち一人びとりが自分に与えられたいのちを、より大きないのちの中に溶け込ませるために生きていくことこそ、わたしたちが生きる終局的な目的であり、それが永遠の生命につながることだと私は思っています。」(「命の選択」日野原重明著)
 私たちは、一粒の麦としてこの世に蒔かれているのです。主イエスが私たちの救いのために十字架を負って下さったように、私たちもまた各自の十字架を負って主に従って生きたく思います。もうそのことが神の子としての栄光を受けることであり、その先に神の国へと挙げられるという栄光が備えられているのです。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24,25)この御言葉を心に刻みたく思います。

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