「イエスの姿が変わる」 マタイによる福音書17:1~13

深谷教会受難節(レント)第4主日礼拝2024年3月10日
司会:西岡義治兄
聖書:マタイによる福音書17章1~13節
説教:「イエスの姿が変わる」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21^463
奏楽:平石智子姉

説教題 「イエスの姿が変わる」   (マタイ17章1節~13節)   法亢聖親牧師    
 
 本日は、受難節第4主日です。そこで主イエスがどのようなお気持ちで十字架を背負う覚悟をされたのか、また私たちにとって十字架はどういう意味を持っているのか、そして山上の姿変わり(変貌)の意味をみ言葉に聴いてまいりましょう。
 ペテロは、主イエスを「あなたは、メシア、生ける神の子です」(16:16)と信仰を告白しました。そして天国の鍵までいただいたのですが、その直後、主イエスがわたしはまもなく十字架について死ぬと言われた時、主イエスを脇に呼び寄せてそんなことを言わないでくださいといさめました。この時のペテロは、明らかに主イエスの負われる十字架の意味を理解していませんでした。主イエスは、十字架の苦難だけを語ったのではありません。エルサレムに行って苦しみを受けて殺され、3日目に復活することを弟子たちに告げられているのです。主イエスは、十字架をしっかりと見つめておられましたが、決して苦難だけを語っておられるのではありません。「三日目によみがえる」(16:21)ことについて、自分のいのちを捨てる者の「見い出すいのち」(16:25)について、また人の子が父の栄光の内に来られる時の「報い」(16:27)について語られています。主イエスは、苦難を通して、即ち十字架を通して栄光に入ることができる道を示されたのです。
 ペテロにとっても、私たちにとっても、苦難だけが強調されますと、「三日目によみがえる」復活の輝きが忘れられてしまいます。人間には、暗い面を考えると、反対に明るい面を考えることができなくなる傾向があります。これは誰にでもあてはまることで、いずれも暗い面だけが気になって光を信じられなくなるという本能にもとづくものです。そこで主イエスは、山上の姿変わり(変貌)を通して苦難を見据え、十字架を負うことによって、救い主の栄光へと通じることを具体的にお教えになられたのです。主イエスのメシアとしての道を理解することができないペテロたちに十字架を負われる前に栄光のお姿をお見せになられたのです。十字架の神の御子イエスは、旧約聖書の代表者モーセとエリヤが仕えるところをお見せになりご自身が律法とメシア預言の成就者、旧約の完成者であることをお示しになられたのです。しかし、十字架の暗い面におびえ、「主よ、とんでもないことです」と言ったペテロは、今輝かしい姿を見た時、素晴らしさに見とれ、これをいつまでもとどめておきたいと願いました。人間は誰しも苦労せずに救われ、栄光をつかみたいと願うものです。犠牲を払ってまでして神の国に入りたいとは思わないのが常です。
 確かに今、主イエスはモーセとエリヤと共に昇天し、天国にお住みになることもできたでしょう。しかし、主イエスは、地上の私たちを捨て、地上での苦難を捨てて、天上の栄光にもどろうとはなさいませんでした。また限られた人たちだけしか登ってくることができないような高い山の上で留まることを良しとされなかったのです。むしろ、下山することを良しとされたのです。ご自分が天からこの世に降ってこられたことの意味を再確認されたのです。そうです、主ご自身が私たちのもと(この世)に来てくださり私たちの十字架(使命や苦しみ)を共に負ってくださり、再び私たちの魂の故郷・神の国に帰ることができるようにしてくださったということをです。山の下には、つまり地上(この世)にはなお罪と苦悩と死とに悩む人がいます。イエスは、そうした私たちのために下山する道を選ばれたのです。すなわち私たちの救いの道・十字架を負う苦難の道を選ばれたのです。ところがペテロは、地上で苦しむ者と共に生き闘う教会をつくるより、天上の栄光の教会に逃れようとしました。私たちは夢をみていてはならないのです。私たちは天使ではなくいぜんとしてこの世に使命を負う神の子・キリスト者です。
「ペテロがまだ語っているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。」また、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。」(17:5)
 注意してみますと聖書は、雲という言葉を2度繰り返しています。一度目の光り輝く雲は、天上の栄光を現わし、今はその栄光は雲に覆われているということです。私たちが生き、信じ、約束を与えられているのは、この地上です。そのことを見つめなさいと言うのが、第1の雲の意味です。そして第2が続きます。その天から遣わされた者の声に聞きなさいと言うことです。私たちの使命は、地上を見つめつつ、天からの声に聞き従いながら生きる時果たされるのです。キリスト者は、この2つに生きる者です。私たちは、今、見ずして信じる信仰で満足しなければなりません。
「弟子たちはこれを聞いて、顔を地に伏せ、ひどく恐れました。」(17:6)
 私たちの信仰の中には、ペテロたちと同じように、十字架をさけて、「主よ、十字架を負って死ぬなどとんでもないことです」と言い、美しい栄光を夢見て、それを固定化しようとする誘惑がつきまといます。しかし、「わたしの父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18:11)。私たちが、天よりの声を聞いて、ひれ伏すとき、主イエスは近づいてくださいます。私たちが現実逃避的な夢を見ている時、主イエスは、遠く離れてしまいます。主イエスは「立ち上がりなさい、恐れることはありません」(17:7)と私たちに手を差し伸べ抱き起してくださるのです。私たちが夢や希望を失い、天が見えなくなったとき、地上の現実の主イエス(聖霊となられて働かれる主イエス)が、私たちの恐れの中に立ってくださり、あらゆる恐れを取り去ってくださるのです。

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