「悲しむ者のさいわい」 マタイによる福音書5:1~12

深谷教会受難節(レント)第2主日礼拝2024年2月25日
司会:悦見映兄
聖書:マタイによる福音書5章1節~12節
説教:「悲しむ者はさいわい」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-533
奏楽:杉田裕恵姉

             
説教題 「悲しむ者のさいわい」  マタイによる福音書5章1節~12節

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5;4)
 私たちは悲しみを抱えたまま生きていくように造られていると思います。罪の悲しみつまり不完全な悲しみ、離別の悲しみ、病弱の悲しみ、孤独の悲しみ、挫折の悲しみ、社会の矛盾から来る悲しみ、そして死の悲しみなどです。そうした人間の悲しみの現実を前にして主イエスは、私たちに言われました。「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」と。これが山上の説教の2番目として語られた言葉です。ルカ福音書の山上の説教では、「あなたがた今泣いている人たちはさいわいだ。笑うようになるからだ」(ルカ6:21)とあります。つまり、さいわいなのは今泣いている人たちであり、そうした人たちは、慰められ、笑うようになるからだと主イエスは言われるのです。
 私たちの現実の世界の常識とは全く逆のことを主イエスはおっしゃっています。なぜ主イエスはそのようなことをおっしゃるのでしょうか。それは悲しみを通して神と出会うからです。また本当の自分自身の姿を見、自分の本心に目覚めるからです。

 河野進詩集の中に「病まなければ」という詩があります。 
        病まなければ
病まなければ ささげ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇跡がある
病まなければ 聞き得ない御言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある
おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない

 河野進牧師の言われるように、悲しみによって高ぶったり、思いあがったりしていた心が打ち砕かれ、低い素直な心にされ、悲しみを味わうことにより人生の普段は隠されている真実に触れ、他の人の悲しみを思いやる優しい心が与えられるようになるということを、主イエスは、本日の聖句を通して説き明かされたのです。旧約の詩編の詩人も「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119:71)と詩っています。
もちろん悲しみがそのまま良いのではありません。悲しみの中でひねくれ、かたくなな心になってしまうこともいくらでもあります。そればかりか悲しみにより二度と心を開かなくなってしまうこともあります。中原中也の詩「汚れちまった悲しみよ」のように感傷にひたり死を夢見るようになることさえ起こるのですから。
 Ⅱコリント7:10以降には、この世の悲しみは死を来たらせると記されています。苦しみの中で世を呪い、人を恨み、復讐を誓うだけで終わってしまう人生ならば、結局自分自身に死をも来たらせてしまうと聖書は、言っています。聖書が本当に伝えたいことは、神の御前において悲しみが、祝福に変えられるということを言っているのです。「神のみこころに添う悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導く」(Ⅱコリント7:10)。つまり人は悲しみによって悔い改め、神に立ち返り神の慰め・神の恵みにあずかるように導かれるというのです。
 イザヤは、イザヤ書53章でメシアは「侮られて捨てられ、悲しみの人にして悩みを知っておられる救い主である。」、即ち苦難の僕(しもべ)として到来すると預言をしました。その預言の成就者である主イエスが、「彼ら(悲しむ者)は慰められるであろう」と言われるのです。上から目線ではなく、天から苦しみ、悲しむ私たちのもとに降ってこられ、この世のどん底・十字架刑と言う、神さまと人から捨てられたという低きから私たちを招き、悲しみ・苦しみのただ中にある私たちに出会い助けてくださるのです。へブル人への手紙にも「大祭司である イエスは、私たちの弱さをおもいやることのできないようなかたではなく、罪は犯さなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に遭われたのである。」(へブル4:15)と記されています。
 だからこそ本当の慰めを与えることができ、主イエスは、「慰め主」とも言われるゆえんがここにあります。「聖霊」も「パラクレートス(慰め主)」と言われます。即ち現在では、主イエスは、聖霊となられてわたしたちを慰め守り共に寄り添い導いていてくださるのです。
 悲しみがないことが幸福ではなく、挫折や失敗を味わないことが喜びであるのでもなく、神の前で自分の弱さを素直に悲しみ泣くことができる人がさいわいなのです。その人は、主イエスが慰めて下さるからです。ペトロは、イエスなど知らないと3度否みました、その時鶏が鳴き主イエスの言葉を思い出し外に出て激しく泣きました。ペテロのように自分の弱さに泣き、人間の悲しみを悲しみつつ救いを得させる悔い改めに導かれることを信ずる人の集いが教会です。主日ごとに礼拝に集い罪赦され贖われ、即ち慰めを受け、涙をぬぐいとっていただき、主が共に重荷を負い、共に歩んでくださるというメッセージを聞き、立ち上がらせていただき、新しい1週間の歩みへと派遣されていくのです。
 「生きている時も死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」「それは、私が生きている時も、また死ぬる時も、私の身も魂も私のものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであるということです。」(ハイデルンベルク信仰問答1)これはわたしたちの告白でもあるのではなでしょうか。

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