「キリストのうちに」 ヨハネによる福音書15:1~10

深谷教会降誕節第6主日礼拝説教要旨 2024年2月4日

説教:法亢聖親牧師

説教題:「キリストのうちに」 (ヨハネ15章1~10節)
                    
「イン ゴッド アワー トラスト」とは、「我々は、神を信ず」と言う言葉ですが、直訳すると「我々は、神の内にあることを信じる」となります。これは、アメリカの1ドル札に印字されていることばです。そうです。私たちは、「イン ゴッド」神さまの恵みと守りの内に在るのです。キリストの十字架の救い、つまりイエス・キリストの贖罪の愛を信じ受け入れる時そのことを実感することができます。贖罪の愛とは、キリストの十字架の死と復活の恵みによって永遠の命の源である神さまに結びつき死と罪(原罪)から解放されるという神さまの愛のことです。
 私は、高校2年(17歳)の時、苦悩の中でキリストに出会い、主イエスの贖罪の愛に触れ洗礼を受け、その愛に応えるべく献身しました。それは、友の突然の死に自分の無力さを感じ、何の力にもなれなかった自分を責め苦しんでいた時、主イエスは夢の中で出会って下さり、私に呼び掛けられたのです。「自分をせめることをやめ。その友のことはわたしに任せて、その友にしてやれなかったことをほかの人にしてあげなさい」と。私の罪即ち弱さを贖い、生きる指針を指し示してくださったのです。こうした出来事の中で、私はイエスをキリストと信じ、キリストと共に生きる信仰が与えられました。この信仰が一切の恵みの源であったのです。人間は、たりないために様々な失敗や絶望をすることがあります。その時、その失敗や絶望からどのようにして立ち直るかが大切です。ところがこうした時こそ信仰があるかないかで大変な相違があります。また、時には人の誤解とか、外部の出来事のために、思いもよらない困難に出会うこともあります。そうした時キリストに在る心の平安と、一切を主に委ねて安心して生きる思いがあれば、無事乗り越えることだきるのです。
 人生の旅に喜びを常に与えるものはこの信仰です。この信仰はどうして与えられ、その信仰をどうやって育ててゆくのか。それが今信仰を持っているものに、また信仰に入ろうとしている人にとって実に大切な点です。私は自分の体験からこのことに関して一つのことを申し上げたく思います。それは、「キリストのうちに留まる者」になりきると言うことです。本日の御言葉で言うならば、「キリストにつながる者」になりきると言うことです。贖罪の愛の象徴である主イエスの十字架を信じると言うことです。信ずる信仰によってまことのブドウの木、即ち、主イエスの十字架の枝としてつながると言うことです。そしてその神さまの救いの完成、アガペー・神の愛の完成である十字架を土台として建てられた主の体なる教会につながる者となると言うことです。
 私は、牧師として長年歩んでまいりましたが、うれしかった事、感謝な事も多くありましたが、そうではなく心を痛めたことも多くありました。その中で一番心を痛めたのは、信仰につまずき、教会から遠ざかった方々のことです。それには色々な事情があって、信仰を失ったと言うことではなく、一時的に教会を遠ざかっている人もいます。ですから一概にこうだと言うことはできません。けれどいつの間にかキリストから離れたと言うことになれば、一番不幸なことだと思います。私たち牧師の一番苦労するところです。
 王子教会の牧師をしていた時のことですが、壮年の方が教会を訪ねて来られ、「自分は、定年を機に王子の地に40年ぶりに戻ったので、若き日にキリストに出会い自分の行く道を示してもらった王子教会の教会員として復帰したい」と申し出てくださいました。その時私は牧師としてとても嬉しかったことを今でも覚えています
 主イエスは、私につながっていなさいと言われました。これが信仰の本当の姿です。キリストにつながることが、天地創造の神、真(まこと)の神さまにつながることであるのです。それ以外に道はありません。また「キリストにつながっていれば人生の豊かな実を結ぶ。離れていては何一つできない。」とは、神さまの命・永遠の命から離れるからです。神さまの命の働かない、永遠の命と言うエネルギーの働かない枝は、枯れた枝と同じでやがてどんなにこの世的に繁茂したように見えてもやがては朽ち果ててしまうのです。しかし、キリストのうち、キリストの愛のうちにいる者の生涯は、どんなに過酷で苦しいものであったとしても永遠の御国を継ぐみのり豊かな実を結ぶ枝の生涯となるのです。
 キリストに結びついていると言うことを信仰生活の中で現わそうとする一つの大切なことがあります。それは、教会につながると言うことです。ある人は、言います。「よく祈り、よく聖書に聴き、よく人々に仕え、社会に奉仕すれば教会に行かなくてもよいのではないか」と。また「教会は所詮人の集まり教会に行くとごたごたした人間関係があり煩わしい」と言う人もいます。ここに非常におそろしい危険があると思います。サタンが働いているのです。サタンの究極的な働きは、人をキリストから引き離すことです。具体的には、人々を教会から遠ざけることにあります。教会は、キリストの体です。「この世のどんな被造物もこの世の艱難も死も・・私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:35~39)とパウロが言っているようにサタンと言えどもキリストの愛から私たちを引き離すことはできないのです。たとえ一時的に離れたとしても必ず先ほどの方のように主イエスは、連れ戻して下さるのです。
 私たちは、教会の枝としてまことのブドウの木である主イエスにつながることによって、共に礼拝をささげ、互いに祈り合い、愛し合い、助け合って主にある交わりを深めて行く時に私たちの信仰は、ますます強められていくのです。また、教会の奉仕を通して神さまにお仕えしていく時に私たちの信仰は強められていくのです。もし、教会生活で難しい事があれば、牧師にきき、教友にきき、そうした障害を取り除いてしっかりと教会に結びついていただきたく思います。交読詩編の84編11節に「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」とありますように、主日ごとに教会に集い礼拝をささげ、礼拝において命の御言葉を受け生きる知恵と力を頂くことによって信仰は強められ各自の使命を果たし問題を乗り越えて行くことができるようになるのです。また、聖霊により霊肉共に私たちを贖い清め新たに生まれ変わらせていただき希望をもってウイークデー(週日)の歩みを歩み出すことができるのです。

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