「良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10:7~18

深谷教会2024年1月28日主日礼拝説教  
説教:法亢聖親牧師
説教題:「良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章7節~18節     

 初めに今週の招きの言葉を新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11) 
 ヨハネ福音書10章には、良い羊飼いであるイエス・キリストのことが記されています。ここでは、イエス・キリストは、「羊の門」であり、「良い羊飼い」であると記されています。
 使徒教父の一人であるクリストモスは、「主イエスがわたしたちを御父(みちち)のもとに連れてゆかれる時にはご自分を『羊の門』と呼ばれ、わたしたちの世話をされる時には『羊飼い』と呼ばれるのです」と説いています。つまりイエス・キリストは、わたしたちを父なる神さまのもとに導く門であり、わたしたちを養われる羊飼いであるのです。本日は、私たちの羊の門であり、わたしたち羊の羊飼いである主イエスについて聖書に聞きたく思います。
 まず、イエス・キリストは「門」(10:9)であるとは、どういうことでしょうか。
 門は、隔てられている両側の人々を交流させるものです。英語で「宗教」を「レリジョン」と言いますが、もともと「レリジョン」とは、「結び合せる」という意味を持つ言葉です。さまざまな宗教は、導師が弟子たちを教え導くことによって神さまに結び合せる媒体となります。世の中には、多くの宗教があり導師や教祖がいます。しかし本当に父なる神さまに導き会わせてくれるかどうかはその限りではありません。
 夏目漱石の「門」という本の中に宗助(そうすけ)と言う主人公が出てきます。学生時代下宿屋の奥さんと駆け落ちをした人物です。ところが長い年月がたって駆け落ちをした奥さんの夫が自分たちの住まいの近くにやってくると言うことを知り、今更のように過去の自分が犯した罪を突き付けられ動揺します。宗助は、そこから何とか解脱しようと鎌倉の寺に行き、禅に打ち込み悟りを開こうとします。しかし、座禅をして心を鎮めようとすればするほど雑念や不安が湧いてきて修行を中断して家に帰ります。そこで彼は述懐します。自分は平安解脱の心境を求めて寺に来て、門を叩いた。ところが門の中から声が聞こえて「自分で開けて入れ」と言う。しかし自分は自分の力で門を開けることができない。そうかと言ってあきらめて戻れるかというと戻ることもできない。結局自分は、門の前に立ち続けて人生の夕暮れを待つような人間だと言う事を思い知らされるというお話です。
 漱石の「門」という本には、自分の力で門を開き、通りぬけようとして、それができない人間の弱さが描かれています。そうした限界を持つ人間に対して主イエスは、「わたしは門である」と言われるのです。自分で門を開けて入りなさいと言うのではなく、主イエスが門となられ、神さまの側から人間の側(この世)に入って来てくださり、良き羊飼いとして人間と共に生き養い導いて下さり、神の側へと連れて行ってくださる、神さまと人間とを完全に結び合わせる、完全な仲保者であるということです。
人間の導師が神さまのところに連れていくのではなく、イエス・キリストが神であって、ご自分の人格において神と人間の両方を併せ持っておられるがゆえに、神さまと人間を完全に結び合わせることができるのです。神と人間を完全に結び合せ、生命的な関係(永遠の命の関係)に入れてくださるのです。この仲保者としての姿を、いっそう明確に言い表しているのが「羊飼い」の姿です。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:19)。夏目漱石の「門」の主人公は、自分の罪を突き付けられた時、その罪を自分で償い、解決しなければならないことを思い知らされました。ところが私たちの救い主イエス・キリストは、罪を犯した人と一体となってくださり、その人の罪を負い、自分の命を捨て、身代りとなって、その人を生まれ変わらせて下さるのです。それが、良き羊飼いは、自分の羊のために命を捨てると言うことの意味です。主イエスの負われた十字架です。主イエスとなられた父なる神さまは、命をかけて神さまのもとから遠く離れ迷える羊となった私たちを愛して下さるお方です。
 ヨハネ10:14には、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とあります。この言葉から分かることは、神さまが私たちをどのように愛しておられるかと言うことです。聖書の「知る」とは、知識と言う意味ではなく、深い愛の交わりの中にあることを指します。マタイ1:25に「ヨセフは、男の子が生まれるまでマリアを知る(と関係する)ことはなかった」とありますように、夫が妻と関係を持つ(交わる)ということがここでの知るという意味です。愛を持って、配慮し、守り導くのが、イエス・キリストの人間に対する羊飼いとしての働きです。神さまは、私たちが神さまを無視して生きていても私たちのことを知っていてくださるのです。そればかりか、主イエスは、10:3で「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(ヨハネ10:3)と言っています。羊飼いが、自分の羊1匹一匹の名前を憶えているように、主イエスは、一人一人の名を呼んで下さるのです。
 旧約聖書のサムエル記3章に幼いサムエルが、祭司エリのもとで小坊主として仕えていた時、寝床で眠るサムエルに神さまは、「サムエル、サムエル」と呼ばれました。幼いサムエルは、エリに呼ばれたと思い、2度までもエリの所に行きました。祭司エリは、サムエルにお前の名を呼ぶ声の主は神さまであることを教え、今度呼ばれたなら「僕、聞きます。主よ、お語り下さい。」と応えるようにと命じました。主の呼びかけは、夢の中や静寂の中だけではなく、苦悩や、失意・悲しみの中、いまわの息の中においても聞こえるのです。そうです。心を低くする時、霊の目・霊の耳が開かれ良き羊飼いの呼ぶ声が聞こえるのです。讃美歌にもありますように「我にこよと 主は今 呼び給う」です。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出してくださるのです」(10:3)。私たちをあらゆる災い苦悩の中から脱出させ解放させて下さり行く道を示し開いてくださるのです。
 「エクソダス」と言う映画が大分前に上映されたことがあります。「エクソダス」とは、「多くの人が脱出する」と言う意味の言葉で、旧約聖書の「出エジプト記」のことです。この世の王の支配を象徴するエジプト王の圧政のもと奴隷状態となっていたイスラエルの民を神さまは「神の人モーセ」を遣わし神の愛の支配の中へと脱出させるという意味の物語(ストリー)です。そのモーセの物語は、エジプトを脱出した主の民イスラエルは、過酷な砂漠の半島で主に従って生きる訓練を40年にも渡って受けたことを伝えています。これらは、旧約聖書の神さまの救いの在り方を示すものです。
しかし「今は救いの時」と言われる主イエスがこの世にご降誕された以降の時代は、新しい救いの時代、新しい救いの契約の時代(新約の時代)です。そうです。今は新約聖書の時代であって主イエスを救い主と信じ受ける時その人は救われるのです。これが新約聖書の伝える福音でありよき知らせの中身です。
 つまり私たちキリスト者は、主イエスによってこの世から救われ、つまり出エジプトならぬ「出(しゅつ)この世」を果たし、羊の門の中に入れられ、まことの良い羊飼いである主イエスと共に歩む者とされているのです。旧約のモーセの時代(エクソダス)の時は、父なる神は、飢えと渇きには、マナをふらせ、岩から水を湧き出させ、暑さ寒さにおいては、昼は雲の柱、夜は火の柱をもってイスラエルの民を守り導かれました。そして、外敵や伝染病からは、主は民のうめきを聞き、モーセの執成しの祈りに耳を傾けてくださり、その都度守りいやしてくださり、最終的には、乳と密の豊かな約束の地カナンの地に導き入れて下さったのです。私たち新約の時代の主の民、新しいイスラエルである教会の群れにとっては、主イエスが神さまの御国へと導いてくださるのです。なんとありがたい事でしょうか。
「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる」(10:16)。
 主イエスは、囲いの外にいる羊にも言及されています。先に神の救いの囲いの中に入れられている私たちも囲いの外にいる羊を主の溢れるばかりの御救いの中に招き入れる主のお手伝いをするようにすすめられているのではないでしょうか。
 なんと感謝なことに主イエス・キリストは、囲いの外の羊も私たち同様良き羊飼いである主の声を聞き分けることができるとおっしゃっています。ということは、先に救いの門のうちに入れていただき、主の御声に従って生きることがゆるされている私たちが主の御声を伝え、主と共に生きることの喜びを証しし分かちあうように求められているのだと思います。それが、永遠の命という恵みの中に入れられた者の一番のつとめであると思います。プロテスタントでは、万人祭司でありますから伝道の勤めは、教職つまり、牧師だけでなく信徒も担う光栄に浴しているのです。  

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