「回心」 Ⅱコリント6:1,2

深谷教会2024年1月21日降誕節第4主日礼拝説教要旨  
説教: 法亢聖親牧師
説教題:「回 心」  コリントの信徒への第2の手紙6章1節、2節     

 「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。」(Ⅱコリント6:2) 
 「回心」は、英語で「コンバージョン」と言い「転換する」と言う意味の言葉です。このコンバージョンと言う言葉は、聖書の回心について深い示唆を与えてくれます。聖書の伝えている滅びに向かって歩む方向を、イエス・キリストの十字架の恵みにより、神さまの御国(永遠の命の国)に向かって生きる方向へと方向転換することが回心の真の意味だからです。三省堂の国語辞典にも「回心とは、過去の罪深い心を悔い改めて、神の正しい信仰に帰ること」とあります。つまり、自己中心的な生き方を捨て、神さまとの正しい関係に立ち返ることを回心と言うわけです。
 聖書の中には、このコンバージョンをした人の例が沢山記されています。現在でもユダヤ教徒の中で一番尊敬されているダビデ王もそのうちの一人です。ダビデは、今から3000年前にイスラエルの国を建国した王です。カナンを統一し、近隣諸国を併合し当時の大国にイスラエル王国を認めさせたイスラエルの歴史上最大の賢王です。イスラエルの初代の王はサウル王でしたが、彼はイスラエルの12部族の長老をまとめるのに精いっぱいで、イスラエルを統一国家とする前に、息子ヨナタン王子と共に激戦の地で戦死してしまいました。ダビデは、ヘブライ王朝時代の基礎をつくり、軍事的な軍師としての才能だけでなく貿易や外交手案にもたけイスラエルの国を最も繁栄させた王でした。ダビデ王の時代のイスラエルは非常に富み、栄え国民は税金を払う必要がなかったほどです。いわばダビデ王は、イスラエルの誇りであり、象徴である人物なのです。
 しかし、聖書はそのダビデの良い点だけでなく欠点をも記しています。ダビデ王の失態を数多く伝えています。代表的なのが将軍ウリアの妻バテシバを自分の妻として奪い取ってしまった出来事です。とはいっても合法的に、王の権限を行使して忠実な将軍ウリアを最前線に送り戦死させてしまったのです(サムエル記下11:27)。人の目には、罪とは見えませんがしかし、神さまは「人は外見を見るがわたしは、内面を見る」(サムエル上16:7)と聖書にありますように隠れた所を見ておられるのです。ですから神さまの目をごまかすことはできないのです。サムエル記下12章以下にダビデ王が回心したエピソードが記されています。神さまは、ダビデに預言者ナタンを使わして(サムエル記下12:1~9)、「あなたがその罪深い人です。」(12:7)とナタンを通して断罪されました。その時、ダビデは自分の罪の大きさに気づかされ、「わたしは主に罪を犯しました」(12:13)と言って罪を悔い改め、回心したのです。ここにダビデ王の偉大なるゆえんがあります。王である彼は人間の弱さをわきまえ、神さまの前に悔い改める砕けた魂を持っていたのです(詩編51編2~4節、18,19節)。ここで私たちは、神さまが峻厳なお方であると同時に愛の神、赦しの神であることを知ることができるのではないでしょうか。
 神の民イスラエル、全民族の長子であるイスラエルの歴史は、ダビデに象徴されるように、愛の神への背信とそれを救おうとする神の憐れみの歴史であるのです。
 新約聖書にもキリストの迫害者つまり、神さまに矢を向けた人物パウロのことが詳しく記されています(使徒言行録9章)。彼は、ダマスコに隠れていたキリスト教徒を弾圧しに行く途上で復活の主に出会い、キリストの救いの内に入れられ、コンバージョンしてキリスト教徒になった人物です。このように聖書には沢山の人々の回心の記事が載っています。教会員の皆様も一人一人違った形で復活の主イエス・キリストに出会いコンバージョンされ、こうして主を礼拝し、主にお仕えする人生を歩む者に変えられたのです。
 回心は、確かに新しい生へと呼び覚まされる信仰生活の出発点であり、ニューボーン新しい誕生日です。しかし、先にのべましたが復活の主との出会いは、10人10色でみながダビデやパウロのように劇的なものではないのです。また、決して一回限りの強烈な体験だけでもないのです。そう一生の間に何度も、ある人は一日に何度も生活の中で起こる出来事なのです。「恵みの日に、わたしはあなたを助た」と神さまは言っておられます。「今こそ、救いの時、今こそ救いの日。」(Ⅱコリント6:2)とあるように、一日一日が私たちの恵みの日で、神さまに愛され、神さまに立ち返る救いの日であることを覚えたく思います。主日ごとに礼拝をお捧することは、主から生きる力を頂きに来ると共に主の贖いを受け新しい人として生きるためであるのです。即ち、私たちが生きる人生の方向を軌道修正していただきコンバースするために恵みの礼拝に私たちは集うのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは、過ぎ去った。見よ、すべてのものは新しくなったのです」(Ⅱコリント5:17)。また、「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ6:6)。

関連記事

PAGE TOP