「人生は旅路」へブル11:1~16

深谷教会2024年1月14日降誕節第3主日礼拝             
説教:法亢聖親牧師 
説教題:「人生は旅路」   (へブル11:1~16)       

今週の招きの言葉を新共同訳聖書でお読みいたします。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)新共同訳聖書
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」 (へブル11:1)口語訳聖書
 
 信仰の父祖アブラハムをはじめ信仰のせんだつたちは、目に見えない神を信じる信仰のゆえに神に認められました。
 信仰によって、私たちはこの世界が神のことばによって創造されたことを知ることができ、見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるようになったのです。
 サンテグジュペリは、「星の王子様」の中で、知恵の象徴であるキツネに言わせています。「人間にとって大切なものは、目に見えないんだ」と。空気も風もそうですが信じるということも愛するということもそして何よりも、私たちの魂もみな目には見えません。そのことを通してサンテグジュペリは、目に見えない神さまの存在を示そうとしたのです。実は、言葉の世界も見えない世界です。その見えない世界を神が言葉によって造られたこの世界を、私たちは、言葉をもって表そうとしているのです。その象徴が聖書です。
 本日の聖書の箇所、特にへブル人への手紙11章の4節~16節では、人生を旅にたとえています。
ペテロは「この世の旅人であり、寄留者であるから、魂にいどむ肉の欲を避けて」責任と自制心とをもって進むように(Ⅰペテロ2:11)と勧めていますし、パウロも「目標を目指し・・キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと」忍耐と努力を続けつつ走りつづけようではないかと勧めています。
アブラハムが「父の家を離れ、生まれ故郷を離れ、私が示す地に出て行きなさい」との召し、神の声を聞いたのは75歳の時でした(創世記12章4節)。アブラハムの旅立ちは、新しいことに挑戦するのに歳は関係ないということを示しているように思います。
 創世記11章10節からのセムの系図、特に24節から32節には、父テラのことが記されています。ここを読みますとアブラハムの父テラのことを詳しく知ることができます。アブラムの父テラは、アブラムとナホルそしてハランとを授かり、テラは、当時の世界の中心地であったカルデアのウルの都で一旗あげ長年生活をしていましたが、年をとり一族を連れてハランに引き上げてきていたようです。そしてテラは、ハランで死にました。こうしたことからチグリス・ユーフラテス川の上流で2つの大河に挟まれた町ハランが、ユダヤ民族の発祥の地とされる所以があります。そのほかの根拠として、創世記の24章のイサクの嫁選びの記事を読みますと、はっきりとハランがユダヤ民族の故郷であると記されています。「その時アブラハムは全財産を任せていた僕に「カナンの娘ではなく、私たちの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのためにつれてきなさい」と命じています。
創世記の12章1節~5節の舞台は、テラの故郷、アブラハム、ナホル、ハランの3兄弟が生まれた地ハランです。テラはウルで一旗揚げた人物ですが、故郷で死を迎えたいと願い一族を連れてハランに戻ったのです。そのハランで父テラが死に悶々としていたアブラムに神が、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」と呼びかけ命じられたのです。家督を継いでいたアブラハムでしたが、高齢とはいえ頼りにしていた父テラに先立たれ不安な日々を過ごしていたのです。そんなアブラハムを神は、心に留めアブラハムに声をかけられたのです。
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなた方を選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。」(申命記7章6、7節)
 神が、アブラハムを召し、イスラエルの民をご自分の民として選ばれたのは、アブラハムが有能であったからでも、ユダヤ民族が当時の世界を支配していた列強であったからでもなかったのです。その反対で、アブラハムのことなど当時の人々はしるよしもなく、しかもアブラハムが父亡き後一族をどのように導いて行ったらよいかと悩んでいた時に神は語りかけられ、召しに従ってハランを出で立ったアブラハムの一族は、カナンの地やエジプトなどに寄留する民であって、とるにたりない半遊牧民族にすぎなかったのです。神の導きとご支持を仰がなければ生きていけない少数民族でした。祝福名イスラエルをいただいた3代目の族長ヤコブの時代のことが、出エジプト記1章にしるされています。「ヤコブの腰から出たものは、合わせて70人。ヨセフは、すでにエジプトにいた。」(出エジプト記1章5節)
 このように私たちの神は、悩めるものの神であり、いと小さきものを大いなる救いの御業にお用いになるお方です。
さてアブラハムは、この神の召しを受けた時、一切の執着や、思い煩いを捨てて、神のご命令に従い新しい旅に出発しました。
「天に貯えられてある、朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者」(Ⅰペテロ1章4節)として常に望みを神にかけている生き方です。このようにアブラハムは天国を目指す生き方、神に聞き従う生き方をしたのです。ここに信仰の父祖たるゆえんがあります。 
 アブラハムは、ユダヤ教徒、イスラム教徒そしてキリスト教徒の信仰の父祖となったのです。アブラハムは現在、世界人口80億人中(キリスト教26億、イスラム13億、ユダヤ教は、0.3億)半数近い人々が信じる万物を造られた全能の神を信じる先頭に立つ人物です。もちろん彼は、順風満帆な信仰者の生涯を送ったかと言いますとそうではありません、神に背いたり大失敗をしたり大変な試練を受けたりと波瀾万丈な生涯を送りました。ただ一つ言えることは、神と共に歩んだということです。脇道にそれても彼は、神に立ち返り赦しをこい信仰者の道を生き切ったのです。
 さて、アブラハムが故郷ハランを出で立つとき一族の中で甥のロトだけがアブラハムに同行しました。しかしそのロトは、途中で天幕を捨てて、ソドム・ゴモラの町に家を建て住み始めました。その時から堕落がはじまったことを私たちは知っています。この世の便利さ、快適さ、そして富に心惹かれる生活になじみますと、徐々に神のことを忘れ、神との関係が失われていきます。そしてロトは、悔い改め、霊的に目覚めたとき、再び旅に出かけます。旅人の生活こそイスラエルの民にとっては、神に従って生きることのしるしだったのです。この意味でみことばに従って生きる信仰者が「旅人・寄留者」と呼ばれるのです。その意味でキリストによって新しいイスラエルとされた私たちも、この世では旅人であり、この世の寄留者なのです。(へブル11章13節)なぜならば、私たちの国籍は、天国にあるからです(ピリピ3章20節)。
 アブラハムは、旅の原理を3つ持っていました。
 第1は、揺るがない信仰です。
「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しを受けたとき、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」と(へブル11章8節)へブル人の手紙を書いた人が言っています。普通人生の旅路を歩む人は、過去の経験や知識、財産資産などに頼り、将来のこと、老後のことなどを判断し、安全な道を行こうとします。バブル崩壊前の日本人の多くは、財テクに走りました。しかしそれらは、老後を保証するものとはなりませんでした。バブ            ルがはじけ、銀行の利子が0金利となり。年金をあてにせず、退職金などの積み立てをしてその利息で晩年を悠々と暮らすはずだった人々は、大慌てをいたしました。もちろん資産運用をしたり、金融機関の助けをかりたり、生命保険、年金などにたよってはいけないと言っているのではありません。そうしたものを絶対視してはいけないと言っているのです。そうしたことをする前に、まず神さまのご意志をたずねることが肝要だということです。「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは、人よりも強い」(Ⅰコリント1章25節)という御言葉を確信し、地上の人やものに頼らず、唯、上なる神により頼むことこそ絶対に安全な旅路の杖なのです。 讃美歌1-270(21-458)
 第2は、迷いのない希望です。
 旅路が長くなりますと、いろいろな困難や誘惑に遭遇し、行く手を見失ったり、信仰がゆらぐ危険性が大きくなります。モーセによって、奴隷の地エジプトから解放された民は、砂漠の半島シナイ半島で神の訓練を40年間受けました。その間何度も彼らはモーセに不平不満をぶつけました。「あなたは私たちを砂漠で死滅させるために導いてこられたのですか」と言い、また旅路の困難さにくじけ、「エジプトにいたときには、わずかばかりではあったが肉鍋をたべることもできたし、パンも与えられていた。」と言って過去を振り返り、自由よりも奴隷の安定をモーセに求めたのです。しかし、神に希望をかけるものの人生の旅路は、後ろ
を振りかえることをしません。アブラハムも旅立ったころのことを何度も考えたことでしょう。また、戻る機会もあったことと思います。しかし、彼は後ろに残したものを回顧せず、常に神を礼拝する祭壇を設け、神に礼拝をささげ、祈り、神より希望と力を受けて前進したのです。
 第3は、愛です。
 遊牧民は、団結力が強いと言われています。それは野山や、荒れ野、砂漠を旅し、そのような劣悪な環境の中では、みんなの力を合わせ、助け合っていかなくては、人は、また集団は生きていけないのです。砂漠を旅するキャラバンは、1週間の行程を行くのに10日分の物資を用意します。それは、砂漠では、砂嵐が何日も吹き荒れて前に進むことができなくなることが普通だからです。その時に荷物が重いからと言って、こっそり捨てたり、ちょっとくらいいいだろうと水を決められた量以上に飲んでしまったら、その一人の人の身勝手さのために、キャラバン全体が全滅してしまうことも起こりうるのです。ですから役割分担されたものは、引き受けたことに対して責任を持ってあたり、みんなのことを考えて行動することが求められるのです。相手のことを第1に考える、まさに愛です。アブラハムは、旅を続けて行く途中のことでありましたが、ロトとアブラハムの互いの財産・牛や羊が多くなり従者間で水飲み場での争いが多くなりました。そこでロトを山の上に連れて行き、一方は、湖畔が広がる緑豊かな、当時非常に繁栄していたソドムとゴモラという都市のある地方と他方は荒れ野の広がる山岳地帯とを見せて、ロトによい方を選ばせました。ここにも愛があります。アブラハムの愛の深さがあります。彼の砂漠を旅する判断基準は、愛でした。「愛に生きる」ことは、一見愚かに見えますが、アブラハムは、いつも隣人を第1とし、自分をそのあとにおいて生きたのです。この愛の労苦こそ愚かに見えて実は、彼の旅路を勝利に至らせた秘訣だったのです。信仰によって神を見上げ、希望によって前を見て<具体的に、天国に入るという目標>を愛を生きることによってそれをつかみ取ったのです。それゆえに信仰の父祖とされたのです。私たちもアブラハムにならって信仰を旅路の杖とし、希望を磁石(コンパス)とし、愛を心に貯えて、行く先を知らないでも約束の地は、与えられ、約束されていることを信じて信仰の旅路を歩んでまいりましょう。
祈り
天の父なる神さま
私たちは、あなたはみ子イエス・キリストを通して出会い、私たちを救い、信仰の道、天国に通じる命の道を歩むものとされました。心より感謝いたします。どうぞこれからも信仰による希望を持って生きてゆくことができますようお導きください。そして愛によってそれらのことを達成していくことができるようにしてください。 み子イエス・キリストのみ名によって祈ります。  アーメン
                    

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