「神の像としての人間」 創世記1:26,27

「小羊の会」  2023年11月2日(木)

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

信仰告白(日本基督教団信仰告白)16 使徒信条2    創世記1章26節、27節     

神の像としての人間                       
「『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うものすべてを支配させよう』。神はご自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:26,27)
 人間は神にかたどって造られた存在、神の似姿であるということです。昔からラテン語で「イマゴ・デイ=神の像」と言ってきました。人間は、神の像そのものです。元々古代オリエントでは、神の像は王についてだけ言われてきました。これを聖書では、すべての人間について言いました。これは画期的、革命的な教えです。王だけが神の像ではない、すべての人間が神の像として尊い存在としてつくられたということです。<イザヤ43:4>神の像で意味されていることは、神がどのような存在であるかを考えればわかってきます。神は創造者、支配者、永遠なるお方、愛と正義に富む者などと言えます。この神の像・似姿としての人間はこうした神の性質を内に持つ存在だということです。創造的能力などこうした良いものを人間は与えられている素晴らしい存在と言うことができます。しかしその後、人間は堕落しました。最初の人間アダムは神に背き罪を犯し楽園を後にしなくてはなりませんでした(追放されました)。それでは、罪に落ちた人間における神の像はどうなってしまったのでしょうか。
 宗教改革者のカルバンは、なお人間は神的なものへの感覚を持つ存在として神の像の残像を認めています。近代を代表する神学者のブルンナーも人間は動物と違って言語(神と交信する)能力をもっていると言っています。しかし、バルトは神の像は全く失われていると主張しました。実際のところは、どうなのでしょうか。私は残存を受け入れています。しかし、その残存は、はなはなだしく歪(ゆが)められています。たとえば人間は愛を持っていますが、それは極めて利己的なもので原罪(自己中心性)にきわめて近いものです。神の像が完全な形として存在するのが、キリストです(Ⅱコリント4:4)。父なる神は、神の像を私たちの内に再生するためにキリストを送ってくださり救いの業を成就されたのです(Ⅱコリント3:18)。最初の神の像が回復され、人間と世界が良くなることを神さまは願っておられるのです。

           

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