「天国で神様に会う前に済ませておくとよい8つのこと」 イザヤ43:18 詩篇103:2

「聖書の学びの会」  2023年11月8日(水)
     
 天国で神さまに会う前に済ませておくとよい8つのこと   イザヤ43章18節、詩編103編2節

Ⅰ 自然体:「超老力(ちょうろうりょく)」を身に着けて自分そのものになる パート1

「あなたがたは、さきのことを思い出してはならない。また、いにしえのことを考えてはならない。」(イザヤ43:18)
「わが魂よ、主をほめよ。そのすべての恵みを心にとめよ。」(詩編103:2)

1 過去にとらわれず新しい歩みをする
 老いた時に幸せを身に着けることのできる力を「超老力」ということもあります。それをどうしたら身に着けることができるでしょうか。そして、どうすれば人生を統合して,老人としてのかけがえのない役割を果たすことができるでしょうか。老人としての新しい役割が始まろうとするときには、人生の悲しみや苦しみを忘れる力が必要です。老人として飛び立つとき、過去は清算されて、新しい力で羽ばたくということです。「飛ぶ鳥跡を濁さず」です。聖書には、矛盾しているようなことが記されています。いいえそうではありません。聖書は、すでに赦されたものごとについては、過去を清算されたものとして感謝し、それ以上その過去に囚われることなく(イザヤ43:18)新しい歩みをしなさい(詩編103:2)と言っているのです。聖書の「赦す」とは、忘れるという意味です。人は、許すと言っても恨みを抱えていることがあります。しかし神さまは、「一度清算された(贖ってくださった)過去の罪は思い出さない」お方です。つまり、神さまに赦されたなら、過去の悲しみや苦しみを忘れることができるというのです。赦された者は、過去のことをただ悲しむのではなく、悔いるのでもなく、過去が赦されて今があるのです。それを忘れてはいけないのです。そういうわけで、老人には「過去が赦されて今がある」と言うことを、すなわち、過去を「赦し」ていただいた経験者として、若い人たちに伝える役割があるのです。このような生き方の中に、老人の経験によって培われた人生の知恵や洞察力を見ることができます。歳を重ねる中で人生の意味を知り、赦しを理解し、それを実践して伝えることができる。それが「超老力」です。

〇 過去に囚われる生き方から解放されて新しい歩みを始める。

参考1 さきのこと: 初めからのこと(新共同訳)、2 古(いにしえ): 昔、過去
   3 「赦し」は、神のみが与えることができる永遠の恵み。人の「許し」は、限界がある。

2 “自分そのものに”なっていく
「超老力」とは、若い時の能力が衰えた上で新しい能力が発見されていく、老いを越えていくことで出てくる力です。私たちの次の時代、次の人生を見せてくれます。知恵を得て、洞察力を得て、これまでやってきたことを振り返り、これから続く未来を見渡し、そして自分の人生にも死を迎えたあとがあることに気がつくときが来ます。老いを越えるのですから、たとえ認知症になっても発揮される力です。認知症になると記憶力、判断力、表現力と言った日常生活に必要な能力が衰えていきます。「その人でなくなる」などとの考えが脳裏に浮かびます。確かに、いざ身内が認知症を発症した時には、介護の苦労とは違う、その人が変化して行くことに対する悲しみの感情が溢れ出すこともあるでしょう。また、自分自身が認知症を発症したときのことを創造するだけで恐怖すら感じる人もおられることと思います。では、人間としての本質はどうなっていくのでしょうか?「天国で神さまに・・」の本の著者田頭先生の父上は、戦争を体験され、京大の医学部を出て、医師として精神医療、高齢者医療、終末期医療の先駆者のお一人でした。その先生の父上が今や痩せこけて、寝たきりになられ、しかも認知症の初期の不安と混乱を過ぎて、今はもう安らかそうにしておられるとのことです。その様子を見て田頭先生は、「父は魂が神さまの前に出て行く準備をしている、自分そのものになって行くと言うときなんだ」と感じられたそうです。それまでの学歴や業績は、本人が上から着ていたもので、本人そのもではないのです。立派な背広を着、品のいいネクタイをしていても、お化粧をしておしゃれをしていても、家に帰ればそれを脱ぎとってしまいます。家は自分になれる場所です。そこには、家族と言う関係性があるのです。お父さん、お母さん、夫、妻、おじいちゃん、おばあちゃんという、「人」と「人」という関係です。そこにあるのが自分なのです。その関係性を見い出せない家庭こそ、寂しいものです。

〇「超老力」を身につけることで自分の人生を見渡すことができ、あなたそのものでいられるのです。

3「にもかかわらず」の愛に気づく
 人と人との真実な関係は、能力や効率そして成果を求めません。それは、3つの愛、つまり、「もしもの愛」、「だからの愛」、「にもかかわずの愛」によって説明することができます。「もしもの愛」は、「もしもあなたが、私の必要を満たしてくれるなら、私もあなたを愛します」と考える愛です。でも病気になって、自分が相手の必要を満たしてあげられなくなったとき、たとえば、病気で或は、失業して家族を支えていけなくなった時、「もしもの愛」しか知らない人は、家族の必要を満たせなくなったからもう自分は家族から愛されなくなると心配したり、絶望してしまうのです。次に「だからの愛」とは、『いい人だから愛します』「お金持ちだから愛します」「美人だから愛します」「かっこいいから愛します」という条件付きの愛です。「~だから」愛されているのだと考えている人は、その条件を満たせなくなったら愛される理由がなくなると思い、常に愛を失うことを恐れて暮らすしかありません。病気になったら、歳を取り外見が老いてきたら、その時には愛されなくなるのではないかと恐れることになるのです。しかし、この世には、前者の二つの愛とは、全く違う、本物の愛があるのです。その愛とは「にもかかわらずの愛」です。生まれて来たときの赤ちゃんに対する何の条件も付けない親の無条件の愛です。神さまの愛(アガペー)が、まさにその愛です。私たちは誰もがその愛で愛され、愛することを望んでいるのです。なぜそう言えるかと申しますと、死に近づけば、みな自分になっていくからです。ありのままの自分になっていくときに人が求めるものは、「にもかかわらずの愛」ではないでしょうか。「もしもの愛」や「だからの愛」ではないのです。田頭先生は、ご自分の父上の姿をご覧になり確信されました。「父の老いを見て、介護する時に肉体的健康、知的な能力、誇り、そして喜び、更に、病い、屈辱、悲しみ、それらのすべてが凝縮され、魂に吸収されていくようでした。ありのままの父が、一人の人間としてそこにいたのです!」
○ 老いて、ありのままの自分になる。そのとき人が求めるのは「にもかかわらず」の愛。

勧め
1 過去に囚われる生き方から解放されて新しい歩みを始める。
2 「超老力」を身につけることで自分の人生を見渡すことができ、あなたそのものでいられる。
3 老いて、ありのままの自分になる。そのとき人が求めるのは「にもかかわらず」の愛。
参考
1 老人は夢を見る 使徒2:17、ヨエル3:1~5 青年は、幻を、老人は夢を見る)
2 ギリシア語の愛:アガペー(神の愛、無償の愛)
エロース(エゴに根差した人間の愛)
フィリアー(友愛)

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