「決して無駄にならない」 フィリピの信徒への手紙2:12~18

2023年11月26日

説教題 「決して無駄にはならない」    曽根教会 佐藤嘉哉牧師

フィリピの信徒への手紙2章12~18節

 兵庫県高砂市にあります曽根教会の担任教師の佐藤嘉哉です。今日は深谷教会の皆さまとお会いできたことを嬉しく思います。またお招き下さりありがとうございます。わたしはこれまでの間にイジメや大学受験失敗。同志社大学神学部に進学後も様々な悩みを抱えて過ごしてきました。どうしてわたしはこうも生き方が下手なのかと悩むことが多くあり、その中で神に何度も問い何度も神に背を向けて歩んできました。しかし背を向ければ向けるほど、何度も神に問うていくうちに「自分は既に神に捕らえられている。」と気づき、牧会者を志しました。
皆さんの心の支えとなる聖書の言葉が書かれている箇所はどこでしょうか。私の心の支えとなる聖書の言葉が書かれている箇所は、フィリピの信徒への手紙です。先ほど私のこれまでの歩みを簡単にお伝えしましたが、私が経験した辛い思い、悩み、そしてキリストへの道から逸れてしまった時、このフィリピの信徒への手紙はそっと、私の心を立ち帰らせてくれます。私の悔い改めの書となると同時に、励ましの書、愛の書となっています。皆さんはそのような聖書箇所はありますでしょうか。また、あの時の苦難を共に乗り越えたというような個所はありますか?
 このフィリピの信徒への手紙はパウロが第三宣教旅行後に捕らえられ、約二年の間牢獄で生活を余儀なくされた際、「コロサイ人への手紙」、「フィレモンへの手紙」、「エフェソの信徒への手紙」と一緒に書かれたものだとされています。この4つの書簡を獄中書簡と呼びます。パウロはただ主イエスの福音を宣べ伝えていただけなのに、投獄されてしまうという理不尽な状況の中でも、主から与えられた恵みを多くの信徒たちに届けるため、世界各地に広がったキリスト共同体に書簡を送り続けました。とりわけこのフィリピにある共同体はパウロ自らが宣教し、作り上げた共同体であり、非常に強い愛着を持っていたそうです。パウロ自身が投獄されてしまうという理不尽な境遇と、ローマの植民地であり、まだキリスト共同体が迫害を受けている中で必死に信仰を持ち続けているフィリピの信徒たちの境遇とが重なっていたのではないかと思います。パウロはそのようなフィリピの信徒たちを励まし、キリストが再びこの地上に来られる日を待ち望むことを勧めています。パウロはフィリピ共同体に、信仰において一致することを訴え、そのためにはへりくだりが必要であることを述べました。「へりくだりはキリスト・イエスのうちにも見られる。だから私たちもキリストを模範としてへりくだって従順になり神を賛美しよう」と勧めています。
 従順という言葉を聞くと、なんだか親がいっているのだから四の五の言わずに従うという風に聞こえます。しかしパウロはローマの信徒への手紙1章5節で、「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」と明かししている通り、神の福音を信じるという行為は、従順に基づいています。
 主イエスはフィリピの信徒たちを励まし続けています。従順に自分の救いを達成するように努めなさい。その行いは神が行わせておられているから安心なさいと言っておられるのです。ここで注目したいのは14節。パウロは、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」と言います。恐らくフィリピの信徒たちの中で、不平や理屈を言う者がいたのでしょう。信仰の導き手として信頼されていたパウロが牢獄にいるという状況で、誰がわたしたちを導いてくれるのか、という不安から来るものであったかもしれません。また信徒の数が増えるほど、様々な意見が出てきて、上手く物事を進めることができない状況であったのかもしれません。いずれにせよ、フィリピ共同体は混乱の中にありました。さらに迫害を受けるという状況も重なり、「キリストの復活を信じる」と言っていても、心から従順にならず好き勝手なことをしている人も現れました。このような状況にある愛するフィリピ共同体に、パウロは「主イエスを模範に従順になろう」と呼びかけます。
 このフィリピ共同体の様子を見ていると、まるで私たちの心を表しているように感じます。私たちの心は常に外からの刺激や誘惑で揺れ動いてしまいます。耐え難い苦しみを受けたり、悩みを抱えたりすると心が頑なになってしまいます。
 曽根教会に着任してしばらくしたある日、ある方からお手紙をもらいました。ある病気を患い、闘病されている方です。その方はそう遠くない天の国へのお引越しの準備をするため、私にお手紙を送ってくださいました。その方はわたしの目から見て、非の打ち所がないほど素晴らしい方です。そのお手紙を読み、涙が止まりませんでした。その方自身もそのお手紙を書く上で私が想像することすらできないほどの苦悩があったのだと思います。その苦悩を超えて全てを委ねるこの方こそ、従順を体で表していると思うのです。へりくだって神に従順となることは簡単な事ではありません。たとえそうしたと思っていても、耐え難い苦悩が襲い掛かると私たちの心は簡単に折れてしまいます。しかしパウロはそのような私たちに14~16節の言葉で励まします。「神と主イエスに心から従って生きることは、何よりも力強いことだ」と言っていると感じます。そして何より、私たちがいつか神と出会った時に「すべてのことは決して無駄ではなかった。」と思える人生を歩むように勧めています。
 またこのパウロの言葉は、今を生きる私たちにも強い励ましを与えています。神につながっていれば、どのような労苦でも無駄にはならない。その労苦一つ一つが全て神の恵みにつながるもので、その労苦を振り返るたびにそれを乗り越えるよう力を与えてくださった神の姿を見ることができます。あの時の労苦は「無駄ではなかった…。」と思えるよう、従順に人生を歩みなさいと励ましているように思えるのです。
 冒頭で私はフィリピの信徒への手紙が心の支えの書だといいました。何度も何度もくじけ、心が折れた時でも立ち上がる勇気をこの書から貰いました。このフィリピ書を読むたびにその時の気持ちを思い出します。聖書と向き合うとはそういうことなのではないでしょうか。皆さんそれぞれが担う労苦は違います。しかしそれを越えて、神につながっているということをともに喜び合いましょう。何度も何度も思い出し、その中で経験した神の励ましを思い出し、再び聖書に立ち帰り勇気をもらう。そのような信仰生活を共に歩んでいきたいと思います。

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