「人生は旅路」 ヘブル11:1~16

2023年11月12日降誕前第7主日礼拝要旨           法亢聖親牧師

説教題 「人生は旅路」    (へブル11:1~16)       

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)新共同訳聖書

 信仰の父祖アブラハムをはじめ信仰の先達(せんだつ)は、目に見えない神を信じる信仰のゆえに神に認められました。
 信仰によって私たちは、この世界が神さまのことばによって創造されたことを知ることができ、見えるものは目に見えているものからできたのではないことが分かるようになったのです(へブル11:3)。
 本日の聖書の箇所、特に11章4節~16節では、人生を旅にたとえています。ペテロは「この世の旅人であり、寄留者であるから、魂にいどむ肉の欲を避けて、責任と自制心とをもって進むように」(Ⅰペテロ2:11)と勧めていますし、パウロも「目標を目指し・・キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと忍耐と努力を続けつつ走り続けようではないか」(ピリピ3:14)と勧めています。
 創世記の12章1節~5節の舞台は、ハランです。頼りにしていた父テラに先立たれ家督を継いでいたアブラハムは、不安な日々を過ごしていました。そんなアブラハムに神さまは、心を留められ「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。・・地のすべてのやから(民)は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)」と、声をかけられたのです。
「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなた方を選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。」(申命記7:6,7)
 神さまが、アブラハムを召し、イスラエルの民をご自分の民として選ばれたのは、アブラハムが有能であったからでも、ユダヤ民族が当時の世界を支配していた列強であったからでもなかったのです。その反対で、弱小な民族だったからです。そして、アブラハムの民を通してすべての民族を救いに入れる大いなるご計画をお立てになったのです。このように私たちの神さまは、悩めるものの神であり、いと小さきものを大いなる救いの御業にお用いになるお方です。
アブラハムは、この神の召しを受けた時、一切の執着や、思い煩いを捨てて、神さまのご命令に従い新しい旅に直ちに出発しました(創世記12:4)。神さまのみ声に聴き従って生きる、天国を目指す生き方を始めたのです。もちろん彼は、順風満帆な信仰者の生涯を送ったかと申しますとそうではありません、神さまに背いたり、大失敗をしたり、大変な試練を受けるなど波瀾万丈な生涯を送りました。ただ一つ言えることは、神さまと共に歩んだということです。脇道にそれても彼は、神に立ち返り赦ししを乞い信仰者の道を生き切ったのです。
 アブラハムは、旅の原理を3つ持っていました。
 第1は、揺るがない信仰です。
 「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しを受けたとき、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」(へブル11:8、創世記12:4)です。普通人生の旅路を歩む人は、過去の経験や知識、財産資産などに頼り、将来のこと、老後のことなどを判断し、安全な道を行こうとします。そうしたことをする前に、始める前にまず神さまのご意志をたずねることが肝要だということです。「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは、人よりも強い」(Ⅰコリント1:25)という御言葉を確信し、地上の人やものに頼らず、唯、上なる神さまにより頼むことこそ絶対に安全な旅路の杖なのです(讃美歌21-458)。
 第2は、迷いのない希望です。
 旅路が長くなりますと、いろいろな困難や誘惑に遭遇し、行く手を見失ったり、信仰がゆらぐ危険性が大きくなります。モーセによって、奴隷の地エジプトから解放された民は、砂漠の半島シナイ半島で神の訓練を40年間受けました。その間何度も彼らはモーセに不平不満をぶつけ、エジプトに連れ戻してくれと迫りました。しかし、神に希望をかけるものの人生の旅路は、後ろを振りかえることをしません。アブラハムも出立したところのことを何度も考えたことでしょう。また、戻る機会もあったことと思います。しかし、彼は後ろに残したものを回顧せず、常に神を礼拝する祭壇を設け、神さまに礼拝をささげ、祈り、神さまより希望と力を受けて前進したのです。
 第3は、愛です。
 遊牧民は、団結力が強いと言われています。それは野山や、荒れ野、砂漠を旅し、そのような劣悪な環境の中では、みんなの力を合わせ、助け合っていかなくては、人は、また集団は生きていけないのです。砂漠を旅するキャラバンは、1週間の行程を行くのに10日分の物資を用意します。それは、砂漠では、砂嵐が何日も吹き荒れて前に進むことができなることが普通だからです。その時に荷物が重いからと言って、こっそり捨てたり、ちょっとくらいいいだろうと水を決められた量以上に飲んでしまったら、その一人の人のみがってさのために、キャラバン全体が全滅してしまうことも起こりうるのです。ですから役割分担されたものは、引き受けたことに対して責任を持ってあたり、みんなのことを考えて行動することが求められるのです。相手のことを第1に考える、まさに愛です。
 アブラハムの砂漠を旅する判断基準は、愛でした。「愛に生きる」ことは、一見愚かに見えますが、アブラハムは、いつも隣人を第1とし、自分をそのあとにおいて生きたのです。この愛の労苦こそ愚かに見えて実は、彼の旅路を勝利に至らせた秘訣だったのです。信仰によって神さまを見上げ、希望によって前を見て(具体的に、天国に入るという目標)、愛を生きることによってそれをつかみ取ったのです。それゆえに信仰の父祖とされたのです。新しいイスラエルとされた私たちもこの世では旅人であり、寄留者なのですから、アブラハムにならって信仰を旅路の杖とし、希望を磁石(コンパス)とし、愛を心に貯えて、天の御国の民となることが約束されていることを信じて信仰の旅路を歩んでまいりましょう。

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