2023年11月19日降誕前第6主日礼拝説教要旨 法亢聖親牧師
説教題 「主イエスについての証し(あかし)」 (ヨハネ5:36~45)
ヨハネ福音書は、「証し(あかし)と言うモチーフ(この福音書を書いた動機となった中心的思想)を繰り返し伝えています。それは、この福音書が示す神さまが、「父・子・聖霊(御霊)の神」つまり「三位一体(さんみいったい)の神」であり(5:37,38)、「愛の神」(5:40~42)であるからです。このヨハネ福音書が示す神は、自己を「啓示する(現す)」場合にも、他者をその行為に「あずからせ」、「あかし」をさせます。本日の聖書の箇所は、主イエスを「証しする」主体がいく通りも記されています。
まず、「真理(主イエス)について証しする洗礼者ヨハネがいます(ヨハネ1:26,27)。次に、「ヨハネの証しにまさる証し」として御父ご自身が主イエスに成し遂げるようにとお与えになった「わざ」があります。また、「聖書」があります。ヨハネ福音書の場合の聖書は、「旧約聖書」のことです。そのほか、12弟子(15:27)、他のヨハネ福音書に登場している人物等、そして私たちキリスト者です。何よりも「主イエスご自身が証し」しておられます。しかし、決定的な証明者となるのは、「聖霊」ご自身です。この聖霊が働く時、すべての証しが、神さまの栄光を讃える有効な証しとなるのです。
さて、次にこの「主イエスの証し」について具体的に解き明かしているのがヨハネ福音書5章の冒頭の「ベテスダ(憐みの家)の池」の38年間病気で苦しんでいる人のいやしの出来事です(5:1~18)。この池の水が動く時、真っ先に水に入った者は癒(いや)されるということを聞きつけて、難病に苦しむ人々が各地からやって来て、そこに群がり、その人々が雨露をしのぐために建てられたと思われる5つの回廊にあふれていました。ベテスダの池の病人たちの中に、38年と言う長い間、病気に苦しむ人がいました。主イエスはその人に近づいて「良くなりたいか」(5:6)と尋ねました。この問いに対してこの病人は「主よ、水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです」(5:7)と答えました。主イエスがこのように問われたのは、この難病に苦しんでいる人が本当に治りたいと思っているのか、もう駄目だと投げやりになっているかを確認するためだったのです。また、主イエスは、この人を見た時、肉体の病気だけではなく、彼の心の状態にも気が付かれたのだと思います(サムエル上16:7)。なぜならば、「良くなりたいか」と尋ねた時、この人は病気が治るという言い伝えのあるこの池が、自分のことにはならない。「癒しの現場に連れて行ってくれる人がいない」と言う孤独を訴えたことからわかるように、主イエスは、そんな彼の心の叫びを聞き届けてくださったのです。ここで2つのことが示されています。「主は見知らぬ人としてご自分が救い主であることを証して(出会って)くださる」(5:13)ということと、「主イエスの方から救いを求めている者の所に来てくださり、主の言葉に聞き従うものを救ってくださる」(5:12)ということです。
埼玉地区の加須教会を中心として、始められた社会福祉法人「愛の泉」会の創設者は、ドイツ人の宣教師キュックリッヒ先生です。若き日のキュックリッヒ先生は、幼稚園教育の専門家であったため、ドイツ福音教会から日本に幼稚園教育を根付かせるために宣教師になって行くように勧められましたが、自分の行くところではないと思っていました。ところがある夜の祈祷会で、ベテスダの病人の箇所が読まれ、7節の「わたしを池の中に入れてくれる人がいません」と言う言葉に胸が付かれたのでした。当時は第一次世界大戦のころで、キュックリッヒ先生の婚約者であった人が、戦争に召集されて戦死し、その悲しみを秘めた心に「わたしには助けてくれる人がいません」と言う言葉が飛び込んできました。先生ご自身の悲しみを「慰め助けてくれる人がいません」と言う叫びを、主イエスが聞いて、わたしのところに来てくださり、わたしがその人になってあげようと、わたしを受け止め、癒してくださることを。先生はその時、深く味わわれました。そして改めてキュックリッヒ先生の心に、日本の子どもたちが「わたしには助けてくれる人がいません」と叫んでいる、その声が聞こえるように思えてきました。そして「わたしがその人になろう」と決心して、長い船旅をして日本に来られたのです。主イエスは「わたしには助けてくれる人がいません」と、孤独を訴える人間の所に来られ、その人が求める「人」になってくださるのです。
このキュックリッヒ先生の聖霊体験が示していることは、主イエスは、現代でも聖書・み言葉を通し、また人を通してご自身を証し(表し)、出会ってくださるということです。つまり、父なる神と神のわざを証しされる人の子イエスは、聖霊となられて現在も聖書(御言葉)と人や出来事を通して私たちに出会い、神の子として愛を行うことのできる者に変えてくださるということです。
もう一つヨハネ福音書5章8節の「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(新共同訳)から学ぶことができます。ここで、「起き上がる」と訳されている言葉は、病気の床から立ち上がるという意味と同時に、人間が死から立ち上がる、復活するという意味も含んでいます。この5章の後半の部分の主イエスの教えの所で、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5:25)と、イエス・キリストに出会って、主を迎え、主を信じる者が、永遠の命を与えられることが語られています。
使徒信条の最後の段落では、「体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白されています。復活と永遠の命とは、やがて与えられる終末の希望です。ところがヨハネ福音書では、死者の復活と言う終末の時を「今やその時である」と、現在のこととして告げています。聖書学者はこのようなとらえ方を「現在的終末論」あるいは、「実現した終末論」と呼んでいます。イエス・キリストがこの世に来てくださって、死から復活されることによって、神さまの救いが完成し、キリストと出会い、キリストと交わり、キリストと共に歩む者は、死んでも滅びない命と力を、今すでに与えられていることを伝えています。 主イエスはベテスダの池のほとりで38年も病の床に伏していた人が「わたしには助けてくれる人がいません」と嘆くのを聞いて、真の隣り人・助けてとなってくださいました。私たちも主イエスが、天の御国からご降誕され私たちに寄り添ってくださったように、「わたしには助けてくれる人がいません」と言う人の隣人になって寄り添い、共に歩んでいきたく思います。