「天国の門を開く信仰」 ルカによる福音書18:9~14

深谷教会聖霊降臨節第22主日礼拝2023年10月22日
聖書:ルカによる福音書18章9~14節
説教:「天国の門を開く信仰」
   西川 晃充牧師

 説教題:「天国の門を開く信仰」 ルカによる福音書18章9~14節

 『たいせつなきみ』という絵本があります。それは次のような話です。
 人形の造りの職人が造った木彫りの人形たちの暮らす村で、人形たちが「お星さまシール」と「ダメじるしシール」とを、お互いに付け合いながら生活していた。そのため、この村の人形たちは皆、少しでも「お星さまシール」を多くつけてもらえるように努力して生きていたのです。
 本日の聖書箇所にもそのような人間の姿があります。ここには、祈るために神殿に上がった二人の人物が登場します。一人は神の立法を熱心に守っていたファリサイ人で、もう一人は「罪人の代表格」とされていた徴税人です。
 最初にファリサイ人が堂々とこう祈りました。
「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者ではないことを感謝します。」
 一見、このファリサイ人は幸福そうに見えますが、決してそうではありません。他者との比較の中で喜びや感謝を見出す者は、常に不安の中におかれることになるからです。
 『たいせつなきみ』の主人公はパンチネロという人形です。彼はいつも失敗ばかりしていました。それゆえ、「お星さまシール」など一つもありませんでした。 ところがある日、彼は、「お星さまシール」も「ダメじるしシール」もつけていないルシアと出会うのです。 パンチネロが彼女にその理由を尋ねると、彼女は「丘の上にあるエリという人間のところに行って話を聞けばいい」と言いました、エリは、この木彫りの人形たちを造った「人形造りの職人」でした、
 パンチネロは教えられた通りにエリのところに行ってみると。エリは、彼をやさしく抱き上げてこう語りかけました。
「他の人形たちがお前のことをどう思うとも、気にすることはない、大切なのは、お前を造ったこの私がお前のことをどう思っているかだ、そして私はお前のことを本当に大切に思っている。」
 この絵本は、このエリの言葉を聞いたパンチネロの体から、一つの「ダメじるしシール」がはがれ落ちるところで終わっています。それは、パンチネロが他の人形と肩を並べることができるような立派な人形になったからではなく、彼が造り主エリの言葉に触れ、他人と比べることから解放されたからでした。
 先ほどの聖書の話には、神殿に上がったもう一人の人物の祈りも語られていました、徴税人の祈りです。彼は、遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とただそれだけしか祈ることができませんでした。
 大事なことは、人が「私は他の人と比べて、私はどうしようもない罪人です」と言っていないことです。
 彼の祈りとあのファリサイ人の祈りの根本的な違いはそこにあります。彼は「目を天に上げようともせず」祈っていますが、彼の心の目は神をしっかりと見上げていたのです。
 「本当に信仰をもって生きるということはこういうことなのだ。」と主イエスはこの話によって私たちに教えておられるのではないでしょうか。
 この徴税人の祈りに触れる時、「罪を犯しておいて、ただ『罪人のわたしを憐れんでください』とだけ祈るなんて、なんと図々しいんだ。『心を入れ替えてこれからは善いことをします。』と、罪を乗り越えようとする努力が必要ではないか」と考える人もいるでしょう。
 しかし、そのように考えている内は、私ちちはまだ、自分の罪の大きさや深さに気づいていないのではないでしょうか。私たちの罪は、自分たちの努力で何とかできる程度のものではないからです。
 私たちの心の目を神にのみ向けていく時、私たちは一切の言い逃れができなくなります。神の前に本当に立つ時が来たなら、私たちは、この徴税人と同じように、胸を打ちながら「神様、罪人の私を憐れんでください」としか言えない存在なのです。
 しかし、そのような者にこそ、主イエスの十字架の贖いによる救いがあり、神の国へのパウポートがあることを覚えたいものです。

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