「忍耐と待望」マタイによる福音書24:1~14

深谷教会聖霊降臨節第21主日礼拝2023年10月15日
司会:悦見 映兄
聖書:マタイによる福音書24章1~14節
説教:「忍耐と待望」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-453
奏楽:杉田裕恵姉

 説教題 「忍耐と待望」    (マタイ24:1~14)       

 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:12、13)

 主イエスと弟子たちがエルサレム神殿の境内を出た時、弟子たちは振り向いて神殿の建物を指さし「それにしても立派な神殿だ」と言ったのかもしれません。エルサレム神殿は、荘厳かつ華麗であり、いかにも永遠に立ち続けるもののように誰の目にも見えました。しかし主イエスは次のように言われました。「一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない」(24:2)と。つまり、主イエスは「この石造りの神殿の石がものの見事に崩れ去る時が来る」と言われたのです。この主イエスのことばは、紀元70年に実際に起きたエルサレム神殿崩壊を預言された言葉と受け止められています。この時エルサレムはローマ帝国の軍隊によって陥落し、神殿は炎上したのです。
 主イエスの24章2節の言葉を聞いた弟子たちは、とても気になり、主イエスに尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴(しるし)があるのですか」(3節)。弟子たちはエルサレム神殿が崩壊するということは、すなわち、世の終わりと考えていたのでしょう。神殿こそは永遠、神殿こそはまさに神さまのおられるところ、神さまの住まいと考えていたからです。
 主イエスは、この弟子たちの質問に対して答えられました。「世の終わり」の一般的な前兆について語られました。そうした中のまず一つ目が「偽預言者あるいは偽キリスト(メシア)が出現する」と言われました。「惑わされないように気を付けなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(4、5節)。破壊的なカルトや洗脳するカルト宗教が沢山世に造られ、多くの人が巻き込まれている現代の状況をさしているように思えます。次は戦争のうわさです。これも非常に今日的です。世界を不安に駆り立てているロシアのウクライナ侵略という戦争が長引いているのに加え、イスラエルとハマスの戦争が始まり、これからどのような展開になっていくのか非常に危機的な状態になっています。
 しかし、主イエスは「慌てるな」と言われます。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」(6,7節)。民族や国家の戦争に加えて、飢饉や地震が起こるというのはどの時代も同じで世の常ということでしょうか。「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」(8節)。そうした出来事そのものが世の終わりではなく、それらは世の終わりの前兆に過ぎないというのです。
 様々な「前兆」について語られた後、「あなた方」つまり信仰を持つ者に何が起こるかが語られます。「あなた方は苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」(9)とあります。キリストへの信仰ゆえに迫害を受ける。教会の外からの迫害があるのです。
 こうしたことは古代ローマ帝国においてもあったことで、戦中の日本においても起きたことでした。特にホーリネスの流れをくむ教会は、「天皇とキリストとどちらが偉いか」と問われて「キリストです」と答えて、大きな迫害を受けました。その間、日本基督教団の多くの教会は、連帯するのではなく、「あの人たちの信仰は硬すぎる」と言って事実上、切り捨ててしまいました。1986年、日本基督教団は、当時の誤りを認めて、関係者とその家族を教団総会に招いて公式に謝罪しました。
 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(12節)。教会の中においてさえも、自分を守るために愛が冷えていく。それほど、厳しい迫害が起こるということでしょうか。その厳しさから、教会内部で対立が起こり自分たちは何のために信仰しているのだろうかと、問わざるを得ないほど、信仰共同体がもろくも崩れていくことがあります。しかし私たちは、どんなことがあっても愛を証しする共同体であり続けたいと思います。試練に絶え貫く時に教会は誠の教会として立ち、「御国の福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる」(14節)のです。教会が試練に絶え貫いて、その使命を担わなければ、他に誰が福音宣教の使命をはたすのでしょうか。「御国の福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。
 「それから、終わりが来る」(14節)と言われているように、そうしたことが起こらなければ、終わりは来ないのです。この世界は、悪魔の勝利で終わるのではなくて、神さまの勝利で終わるのです。すべてが闇に閉ざされて終わるのではないのです。神さまに逆らう力が世界を覆いつくすように見える時、それはこの世界がそのようにして閉じる徴(しるし)にすぎません。前触れにすぎません。私たちはそのことをよくわきまえなくてはならないのではないでしょうか。
 そして、神さまに逆らうようなそうした力の前で、うろたえてはならないし、意気消沈してはならない。絶望してはならない。それで人を裏切ってはならない。それで私たちの愛を冷やしてはならない。どのような時代も教会は愛の灯を掲げ続かなければならいと思います。
 サタンの力が私たちを支配するかのように見える時、サタンの最後のあがきだと受け止めるようにと主イエスはおっしゃっておられるのです。私たちはそういう中にあって、愛を冷やさないようにして愛を伝えていく。それが教会に託された使命だと思います。この世の様々な終末論には、希望がありません。「そうした日が来ませんように」と祈るのが精一杯です。しかし、私たちキリスト者は違います。「御国が来ますように」(マタイ6:10)と祈ります。終わりの日に、世界は喜びに満たされるという約束を聞いているからです。
 

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