「心問われる応答」 マタイによる福音書21:28~32

深谷教会聖霊降臨節第20主日礼拝2023年10月8日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書21章28~32節
奉唱:「ふるさと」 聖歌隊
説教:「心問われる応答」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-575
奏楽:小野千恵子姉

 説教題「心問われる応答」   (マタイ21:28~32)

「あなたがたは、どう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい。』と言った。兄は嫌ですと答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って同じことを言うと、弟は『お父さん、承知いたしました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか。彼らは『兄の方ですと』と言った。」(マタイ21:28~31新共同訳)
 この父親は兄にも弟にも彼らが心からの同意をもって、ぶどう園での働きに参加することを求めています。この父親は、息子たちの意志を無視して強制的にぶどう園に行かせることはしません。ぶどう園の仕事は、大変な仕事でしょうが、実り(みのり)が期待できるすばらしい仕事です。忍耐のいる仕事ですが父と共に喜びに与かる栄光ある働き場所です。
 主イエスのたとえは、すべて神の国(天国)のたとえと呼ばれ、そこにたとえられているのは、神の国のことです。本日のたとえの父は、神さまで、兄弟は、私たち、そしてぶどう園はこの世であり、それぞれの遣わされている場所です。
 本日の聖書の中で強調されていることがあります。「きょう」ということばです。「今日」という日のうちに「ぶどう園」に行くことが大切だということです。明日でもなく、自分の都合のつくいつかでもなく、父親の依頼は「今日」なのです。聖書には、「今日」という日を強調している箇所が多くあります。たとえば、「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)、また、「『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」(へブル3:13)などです。私は主イエスがおっしゃる「今日」とは、この世に生きているうちという意味があるように思えてなりません。
 今は亡き当時89歳だった瀬戸内寂聴さんが東日本大震災の被災地を回り「青空説法」をする番組がありました。その中で、ご主人を津波でうしなって辛い思いをされているご婦人に、寂聴さんが次のように言っていました。「『仏教には、定命(じょうみょう)』という言葉があり、『定まった命』と書きます。人は、みな誰でも定まった命を持って生まれてきているのです。人の寿命は、良いことをしたから長生きできるとか、悪いことをしたら短命になるとかというものではありません。」と。
 私は、この問答を聞いていてキリスト教の教えと相通ずるものがあると合点しました。それは、「神の摂理」ということです。そのご婦人の夫は神のみ旨に従って生き、神さまがよしとしたもうその日に天に召されたのだということです。私たちは神さまのご計画に従ってこの世に遣わされ、その使命が終わったとき神のもとに帰るように造られているのです。それは人間的に見て未完成な人生に見えても神さまにあっては完成なのです。神さまは、私たちがどれだけのことをしたかという量や仕事の大きさではなく、どう生きたかの質(クヲリティ)をご覧になるのです。つまり、神さまは、人の子である私たちのこの世での生き方を、今日という一日一日の生き方をご覧になるのです。神さまがよしとしたもう時が、私たちの人生の完成の時であることを覚えたいものです。
 さて、話を本日の聖書の箇所の「二人の兄弟のたとえ」に戻しましょう。兄は父親の依頼に対して「嫌(いや)です」と答えましたが、後で考え直してぶどう園に行きました。そんなことも知らず、この父親は兄に断られ、弟のところへ行き、ぶどう園にいってくれるよう頼みました。弟は調子よく「お父さん承知しました」と返事をしました。ところが弟は行きませんでした。この父親は、弟からいい返事をもらった時、安堵したことと思います。兄息子に断られていたので、よけいに弟息子だけでも行ってくれる、何とありがたいことかと胸をなでおろしたことと思います。こうした父親の心を弟は平気で裏切り、その反対に兄は結果的に父親の役に立ったのです。
 本日の聖書の箇所の一番のポイントは、兄の心変わりという点にあると思います。彼は、周囲の手前仕方なく態度を変えたのでも、人から言われてでもなく、自分から心を変えたのです。それは、今までの自分本位の考え方や心の在り方から、父親の思いの場所に自分を立たせて考えるという、今までの生き方、考え方とは全く違う180度の転換をしたのです。それでは、兄は、どうして心を変えたのでしょうか。
 それは父親の在り方だと思います。父親は、兄から「いやだ」と言われた時、兄を叱らず、兄が自分からぶどう園に行く気持ちになるまで忍耐して待っていたからだと思います。兄は、父親のそうした自分を信頼し、待ち続けている気持ちに気づいたのだと思います。こうした心の気づき、転換がなければ「心を変えて・あるいは、考えを変えて」の意味の説明がつきません。彼は、心の中で思ったのです。「お父さん、いつも自分勝手なことをしたり、わがままばかりを言ってごめんなさい。こんな私を信頼し、自分の願いに気づくまで待ち続けてくれてありがとう!あなたの子として、神の国の世継ぎとして、お父さんあなたの願っているぶどう園、つまりこの世での魂の収穫という大変な仕事をお父さんのために、今日、この世にいる限りつとめます。しいられた思いからではなく、また義務からでもなく、喜んでしたいと思います。」と、兄はこのような思いを持ったのだと思います。これが本当の回心だと思います。「回心」、すなわち聖書の言う「悔い改め」とは、心が神さまに立ち返ることだからです。
 神の子とされている私たちの人生の中に誰もが神さまの働き場である「ぶどう園」が与えられているということです。神さまは、すべての人を神さまご自身のいのちに与からせ、その実りを共に喜ぶぶどう園の場所を、その人その人の人生の中に置いているのです。そして、そのぶどう園の中で働くことが求められているのです。私たち誰もが父なる神さまから委託を受けているのです。愛し支えなくてはならない人がいる場所、慰め励まさなければならない人が待つ場所に遣わされているのです。
 本日の召天者記念礼拝において天の御国に帰られた先達の方々、今年新たに天の御国の民に加えられた太田ヒナ子姉、ドクターこと菊地るい子姉、福島和代姉、そして星野義和兄の魂の平安を祈ると共に、先達方がその生涯を通して生きて示された、神の子として、この世で精一杯生き働き御国へ帰るという信仰を受け継いでまいりたく思います。

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