「神の国の経済学」 マタイによる福音書20:1~16

深谷教会聖霊降臨節第17主日礼拝2023年9月17日
司会:廣前成子姉
聖書:マタイによる福音書20章1~16節
説教:「神の国の経済学」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-425
奏楽:野田周平兄

 
 説教題 「神の国の経済学」   マタイ20章1節~16節     

 「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から初めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」(マタイ20章8節)
 本日のたとえは、主イエスの「ぶどう園のたとえ」です。
 ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」を思い出します。1930年代、アメリカのカルフォルニアの大牧場で季節労働者として大勢の貧しい人々が登場する小説です。それらの人々は、1929年からはじまった世界恐慌と干ばつの影響を受けて、自分の家や農地を失った農民たちです。しかし、苦労してやって来たカルフォルニアも決して安住の地ではありませんでした。そこには、自分たちと同じような大勢の失業者とその家族たちがあふれかえり、仕事を得るために皆が必死になっていたのです。ちょうど本日のたとえ話のように大牧場主が毎朝、この失業者たちのキャンプにやって来ては、仕事の内容と賃金を示し、必要な数の人間を雇って行きます。
 ところが聖書と違って、その賃金は、日ごとに低くなっていくのです。買い手市場で、農場の経営者たちは、互いに話し合って、人々を買いたたくのです。そこには、自分と家族が生き残るために必死に働く人々、その人々から搾り取って利益をあげようとする人々、苦しい中で、それに立ち向かおうとする人々、こうした状況に流されていく人々そして犠牲となる人々など、実に様々な人間模様が繰り広げられています。そんな中、次のようにつぶやく人がいました。「おまえたちは、みんないい人間ばかりだ。おれたちは、みんな心が優しんだ。神よ、いつの日か心優しい民衆がみんな貧乏でなくなりますように。神よ、いつの日か子供たちが、食えるようになりますように」。
 主イエスのぶどう園の労働者のたとえとスタインベックの小説とは、大分内容が違っています。主イエスのぶどう園のたとえ話の方がスタインベックの小説より私たちをとまどわせるのではないでしょうか。早朝から働いた人と終業時間のせまる夕方採用されて働いた人と同じ1デナリオン(約一万円)を支払った農場主の価値観はまったくこの世の価値基準とかけはなれているからです。次の日もぶどう園の主人が同じことをしたなら誰も次の日の早朝から働く人はいなくなってしまうのではないでしょうか。皆夕方になってから広場に集まり、主人が来るのを待つようになってしまうからです。「怒りのブドウ」の小説と逆現象が起こります。つまり、主人が甘やかせたため、みんなが必死に生き、働くことをやめ、怠惰になって行くことを助長させることになりかねないからです。
 確かに主イエスの「天の国のたえ」は、この世における経済政策や雇用・失業対策のための提言ではありませんが、しかしあながちまったく違うとも言うことはできないのではないでしょうか。信仰の問題と労働の問題を切り離し、神学と経済学は、別の次元の問題だということはできないと思います。
 この世の価値基準は、「能力に応じて働き、必要に応じて賃金を得る」と言うものです。それに対して天の国の基準は、「一デナリオンをもらったことを共に喜び合うというものです。つまり、神の国の経済学は、神の恵みのもとにすべての人が平等にあつかわれ、すべて神からいただいているものを分かち合うというものです。
 いつでも国連やサミットなどで話し合われる事柄の一つに貧困の問題があります。アフリカ、東南アジア、中近東、南米など貧困は、大変深刻な問題です。そればかりかなんと資本主義の頂点に君臨するアメリカのミーズリー州では、過日貧困層の若者たちが暴動を起こして商店やマーケットになだれ込み略奪を行ったというニュースが報道されていました。どんなに頑張って働いても貧困から抜け出せないという絶望感情や、働きたくても仕事にありつけない若者たちのアメリカ政府や地方行政の貧困者対策や失業・雇用対策に対して「怒りのブドウ」ではありませんが怒りを爆発させたため起こったということです。
 日本もそうした格差社会になりつつあるというより、貧富の格差がじわじわっと現実の問題(正規・非正規社員の問題やワーキングプア―の問題など)となってきています。ロシアのウクライナ侵略が長期化して食料(特に穀物)の流通が滞り貧困の問題は、国際的に深刻の度合いを増しています(特にアフリカ諸国では)。ですから私たちはよけいに神の国の経済学を身に着けて実践していく必要があるのではないでしょうか。神さまからいただいた恵みを共に喜び、神さまからいただいたものを分かち合うという「分かち合いの精神」と「分かち合いの経済学」を。
 「天国と地獄というたとえ」があります。天国にも地獄にも食べるものがたくさんあり、誰もが好きなだけ食べることができます。ただし食卓のご馳走は1メートルもある長いお箸を使って食べなければならいというルール(条件)があるのです。天国の住人は皆美味しいご馳走を沢山食べて元気いっぱいに、幸せに暮らしているのです。ところが地獄の人々は、皆飢えて餓死して今にも死にそうな人たちばかりなのです。どうして同じ条件なのに天と地ほどの違いがあるのでしょうか。それは、天国の住人は長い箸を上手に使ってご馳走を相手の口に入れて食べさせ合っていたのです。他方、地獄の住人たちは長い箸で一生懸命自分の口に入れようとしてその結果パン一切れすら食べることができずに飢えていたのです。神さまからの恵みを分かち合う時に、人は幸せになり、社会は豊かになって行くことをこの天国と地獄のたとえは伝えています。
 岩波新書から経済学者であり東大の教授である神野直彦先生が書かれた「分かち合いの精神」と言う本の中で神野先生は、「今、日本の国がしなければならないのは、経済の構造改革や金融引き締めなどではなく、個人の痛みを社会で引き受け、また一人の「幸せ」を社会の「幸せ」として「分かち合う」と言う発想が今必要だ」と主張をされておられます。また、スウェーデンにおける積極的労働市場政策など、他の国々の政策のデータ―などと比較しながら、日本の経済の閉塞状況の要因を探り、「分かち合い」による経済システムを具体的に提案しています。神野先生は、クリスチャンであるかどうかは分かりませんが、「分かち合いの精神」は、主イエスの体である教会こそが本家本元です。まずは、主イエスによって私たちの心に分かち合いの心を根付かせていただき、自分さえよければいいという自己本位な心を改革していただきたいものです。

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