「恵みによる救い」 エペソ人への手紙2:1~10

「聖書の学びの会」2023年9月13日

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

 「恵みによる救い」   エペソ人への手紙2:1~10                       

「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし ― あなたがたの救われたのは、恵みによるのである ― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださったのである。」(エペソ2:5,6)

1 人間の心の状態 ― 死んでいる状態 
 聖書は、人は罪の中で死んでいる状態であるとしるしています。1節の「罪過」という言葉は「踏み外す」ことを意味しており、また「罪」ということばは、「的からそれる」ことを意味しています。ですから、「罪過と罪との中で死んでいた」とは、人は本来あるべき姿からそれてしまった、或はズレてしまっていると言う意味です。そうしたズレが、人間の中に不調和を生じさせています。人間関係に亀裂をもたらし、憎しみ、争い、ねたみ、偽り、そして肉と心の望むままの行動を生じさせるのです。

2 恵みにより信仰によって
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(8節)とあるように、救いを受けることは神さまの恵みによるのであり、神さまからの賜物です。恵みとは、受けるにふさわしくない者に与えられる神の一方的な愛の現われなのです。人間は、自分の立派な行いや努力によっては、自分自身の罪の問題を解決できません。しかし、罪のない神のひとり子なる主イエスがあなたの罪を全部背負って、十字架にかかって死んでくださったことによって、罪の赦しが成し遂げられたのです。そして、このイエス・キリストにあって罪赦され、生かさた者の人生は、「神の作品」として造りかえられた「新しい人生」の出発でもあるのです(10節)。

勧め
 主を信じる一人一人は、神さまの大いなる愛のゆえに、死からいのちに移されています。ですから、その豊かな恵みを覚え、讃美と感謝を持って、神さまの作品としての人生を歩んで行きましょう。

3 罪の中に死んでいた者が(エペソ2:5、6)
 教会に来ると「私たちは罪人です」とか、礼拝の説教でも牧師は盛んに「罪、罪」と言う言葉を連呼します。はじめて教会にいらした方の中には、閉口してしまう人も見受けられます。どうも日本語の聖書の訳の限界が誤解を招いてしまっているようです。どうしても日本人にとって罪人と言うと犯罪を犯した犯罪者・悪人というイメージで受け取られてしまうのです。ですから自分は、法を犯すようなことをしていないのに何で罪人などと言われなければならいのかと理解に苦しむわけです。しかし、先にのべたように日本語の聖書で「罪」と訳されている言葉は、ギリシア語の「ハマルティア」で「的はずれ」という意味の言葉なのです。そう本来あるべき姿からズレているという意味なのです。体のことを考えてみましょう。体調がおかしくなり病気になるのは、本来の正常で健康な状態からズレてしまったからです。例えば、血圧が正常値より高いとか、血糖値が高いとか、本来の
状態からズレを起こすと、体は病気になってしまうのです。同様に、人は本来、神さまを礼拝し、人を愛し、与えられた沢山のものを用いながら歩んで行くように造られた存在です。しかし、神さまに背を向けて自分勝手に生き、本来の姿からズレてしまった人間の姿は、罪の中で死んでいる状態だと聖書は教えています。その結果、多くの人は空しさの中で、人生の意味を見いだせないまま歩んでいるのです。しかし、聖書はそんな私たちのために、大きな愛を注いでくださる恵み深い神さまがいらっしゃると教えています。そのことは、御子イエス・キリストが私たちの罪を背負い、身代りとなって死んでくださり、3日目に復活された事実の中ではっきりと現されています。一方的な愛と恵みによって、私たちは今を生かされているのです。

祈り
 恵み深い父なる神さま
 あなたの大きな愛と恵みによって、罪を赦し、私を救いに導いて下さったことを感謝いたします。私たちの人生を、神さまの作 
 品として歩む生涯としてください。   
 御子のみ名によって祈ります。 アーメン

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