「心の目が開かれて」 エペソ人への手紙1:17~23

「聖書の学びの会」2023年9月6日
 
★ 法亢様聖親牧師からのメッセージ

 「心の目が開かれて」  エペソ人への手紙1章17~23節
                       
「あなたがたの心の目を明(あき)らかにしてくださるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちが継ぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:18,19)

1 もっと深く神さまを知ることができますように
 パウロは、一人一人、父なる神について深く知ることができるようにと祈っています。知ると言うことは、単に知識を増やすということではありません。パウロは、「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与えて下さいと祈っています(17節)。このことは、信じる者の内に与えられている聖霊が、一人一人の心を約束のみことばに照らし、感動を与え、教え、深く神さまを知ることができるようにという祈りでもあるのです。そして、聖霊の働きによって、神さまが現実に働いて下さっていることを実感できるようにとの祈りなのです。

2 心の目がはっきりと見えるように
 パウロは、「神の召しによって与えられる望み」に、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」、そして、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大であるか」ということに、心の目が開かれるようにと祈っています(18,19節)。主にあって生かされる人生は、何と幸いなことでしょう。そしてパウロはこの祈りの後、すべてのものの上にあり、一切の権威を持っておられるイエス・キリストが教会に与えられていると記しています(22節)。私たちは、このイエス・キリストによって、教会の交わりを通して深く神さまを知り、神さまの偉大な力を味わい、歩んでいくことができるのです。

与えられている神さまの恵みに心の目が開かれ勇気と自信を持って歩んで行きましょう!
 
3 心の目ではっきり見る(エペソ1:18、19)
「心の目がはっきり見えるように」とパウロは祈っています。「心」とは一般的に、知・情・意を表します。ですから、3つの要素を含んでいるものを「心」と考えればよいのではないでしょうか。
聖書を読むことを例にとると、まず知的な作業があります。聖書を読むと言うのは、活字を読むわけですから知的な作業です。次に、聖書を読むことによって、そのみ言葉を通して何かに気づかされたり、感動を覚えたりします。これが情的な面です。そして、その気づきや感動によって、「そうだ。私は、キリストに従っていこう」という決断をしていくわけです。これが意志的な面です。ですから、この知・情・意の3つのバランスがよく働くことが、心の目が開かれる ― 心の目ではっきり見るように(心の目が明らかに)なるということなのです。
 ところでパウロは、このエペソ人への手紙を獄中で書き、獄中で祈っています。彼は、望みから最も離れているような状況下で、エペソの人々が「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか」ということに目が開かれるように、すなわち、消えることのない望みに目が開かれるようにと祈っているのです。
 私たちの人生には、望みが消えうせてしまうような出来事が時々襲って来ます。意気消沈し、望みなどどこにあるのだろうか、と考えさせられることもあります。しかし、そんな時こそ、私たちは聖書のことばを通して、心の目が開かれていくことを祈り求めていきたいものです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている(口語訳)」、
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(新改訳)」(ローマ8:28)と約束されているのですから。

参考  「啓示」とは、ギリシア語では、アポカリュプシス(覆いを取り払う)と言い、天啓、神示とも言う。人間の力では知ることのできないことを、神ご自身が、または、天使など超自然的な存在などを介して人間に伝達すること。キリスト教は、啓示宗教である。(啓示によって、真理が開示され、それによって信仰が成立する宗教)

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