「神を見る者」マタイによる福音書5:1~10

深谷教会聖霊降臨節第13主日礼拝2023年8月20日
司会:山口奈津江姉
聖書:マタイによる福音書5章1~10節
説教:「神を見る者」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-476
奏楽:野田治三郎兄

 説教題 「神を見る者」   マタイ5章1節~10節       

 今朝は、主イエスの山上の説教の第6番目の「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(5:8)からみ言葉に聴いてまいりましょう。
 “一休和尚のところにある強欲な男が来て、仏が分かるようにしてくれと頼みました。一休さんはよろしいと言って一枚の紙に仏と言う字を書いて、これが見えるかねと念を押しました。男がよく見えるというと、一休さんは一枚の小判をその仏の字の上にのせて男に、仏が見えるかねと問いました。もちろん見えない、と男が答えると、一休さんはその男を諭して、お前が仏を分からぬも道理、小判が邪魔して見えぬのじゃ、と言ったということです。”
 一休和尚が強欲な男に「お前が仏を分からぬも道理、小判が邪魔して見えぬのじゃ」と言ったことは、造り主である神さまが分からないというのと同じことが言えるのではないでしょうか。神さまが分からない、見えないというのは、神さまの側に責任があるわけでなく、神さまに背を向けている人間の罪が神さまを見えなくさせてしまっているからです。「聖書の罪」は、ヘブル語の「ハマルケア」でもともとは「的外れ」と言う意味の言葉が使われています。
 つまり、神さまの方を向いて歩まないで、神さまに背を向けて滅びの方向に向かって生きる生き方を聖書では罪と言うのです。人間の罪が神さまを見えなくさせてしまっているのです。つまり、私たち人間が神さまの方を向かないで背を向けているのです。そう考えて行きますと人間と言うものはずいぶんと勝手なものだということができます。神さまに背を向けながら神さまは何処にいるのか、神さまなどいないと、神さまの側に責任をなすりつけているのですから。
 主イエスは、私たち人間に神さまは見ることができる、とはっきり言われました。しかし、そこには大切な条件があるのです。それは「心の清い」と言うことです。心の清い人が神さまを見ることができると言われたのです。
 それでは心の清い人とはどのような人のことを指すのでしょうか。
 主イエスは単に「清い人」がと言っておられません。「心の清い人が」と言われたのです。人が見て道徳的に正しい人が、と言われていません。もちろん道徳的に正しいということは、人間として大切なことですが、主イエスは単に外側の正しさ、清さを指して言われたのでなはなく、心の清さです。「イエスはその思いを知って・・」とは福音書の中に時々出てくる言葉(フレーズ)ですが、主イエスが求められたのは、外側の清さではなく、内側から出てくる内面の清さでした。
 主イエスは、当時の律法学者やファイサイ派の人々の内側の清さを伴わない外側だけの清さを糾弾されておられます。「あなたがたは杯と皿の外側を清めるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。まず杯の内側を清めるがよい。そうすれば外側も清くなるであろう」(マタイ23:25)
 内側の清さは、神さまの前に偽りのない心を言います。偽りとは、いちわり、即ち一を割った二つ心であるという説がありますが、神さまの前に二つ心を持って使い分けをしないで、一つ心になっている人が清い人と言えるのです。ここで、はっきりしておきたいことは、この心の清さは罪のゆるしに深く関わっているということです。心の清い人とは、はじめから罪とは無関係な人、聖人君子を指しているのではありません。罪のない人、欠けをもっていない人はこの世にはいないのです。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。」(ヨハネ第1の手紙1:8)とある通りです。
 罪がないとは、まだ自分の罪を知ることのできない人、またその状態でしかないだけの人です。従って、罪をまだ見つめていない人、罪を知らない人が心の清い人であるのではなく、自分の罪、この世の罪を知って、その罪を主に告白し、罪の赦しの幸せを得ている者が、神さまの前に偽りのない人、つまり「心の清い人」なのです。
 ダビデ王は、イスラエルという国を実質建国した偉大なる王であると同時に、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽しめられません」(詩編51:17)とこのように神さまの前に「悔い砕けた心を持つ王である」からです。つまり、悔い改めることができる。神さまのもとに立ち返ることができる王だからです。
 また、詩編32編1,2節に「そのとがをゆるされ、その罪をおおい消される者はさいわいである・・その霊に偽りのない人はさいわいである」と記されています。彼は王位についてから自分の家臣である将軍ウリアの妻を、自分のものにするため策略を巡らし、ウリアを最も危険な最前線の指揮官として戦死させてしまいます。人の目からは、有能な将軍を最前線の最高司令官として立てるこことは至極当然のことです。しかし、人の目をごまかすことはできても、神さまの目はごまかすことはできません。神は預言者ナタンを差し向けその罪を指摘されました。その時、ダビデは神の前にひれ伏し、王の対面をかなぐり捨てて、滅ぶべき罪人として神さまの前に立ち、自らの霊のゆるしを乞いました。自分をごまかさず、罪人の姿のままで神さまの前に立つ、ここにその霊は偽りなしと言われるのです。そして、悔い改めたダビデ王は、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください」(詩編51:10)と心から求めています。罪を悔い改め、罪のゆるしの中でひたすら神さまに向かって新しく生きようとする心が「清い心」です。
 この清い心は、人間に本来的にそなわっているものではなく、神さまから与えられる心です。罪赦された感謝と喜びの心こそが、清い心であるからです。
 新しい神さまとの救いの契約の時代(新約の時代)、つまり、イエスキリストの十字架の死と復活を信じ救われている私たちは、日々キリストの十字架の前で悔い改め、罪赦され新しい人とされて喜びに生きることがゆるされているのです。「心の清い人」とは、十字架と復活の主イエス・キリストと共に生きる中にある人のことです。「わたしを見た者は父を見たのである」(ヨハネ14:9)と主イエスが語られたように、心の清い者は、イエス・キリストにつながっている心のパイプがクリアーなので、御心がよく分かるのです。

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