深谷教会聖霊降臨節第12主日礼拝2023年8月13日
司会:斎藤綾子姉
聖書:創世記1章20~31節
説教:「いのちから更に大切なものへ」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-444
奏楽:小野千恵子姉
説教題 「いのちから更に大切なものへ」 創世記1章20節~31節
聖書は人間に命を与え、支えてくださるお方は、神さまであることを伝えています。創世記一章を見てみますと、最初に光、水、空気(大空:大気)造られた状況が記されています。この三つはすべての生物が生きて行くために絶対に必要なものです。神さまは生き物を造られる前に大切なこの三つを造られたのです。そこから植物、魚、鳥、獣と、順序よく一つ一つの生き物を造られたことが記されています。
創世記の天地創造の記事は、素晴らしい神さまのなされた、いのちの創造の絵巻です。そして創造主なる神さまは、すべてのものを造られ、整えられ、良しとされた後(1:25)、人間を造られました。
神さまが人間を造られたのは、それまでの被造物の作り方とは質的に全く違うものでした。「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を作ろう』・・神はご自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:26,27)と記されているように、人間は神の姿つまり、似姿(イマゴ・デイ)として造られたのです。その造り方は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息(ルアッハ:神の霊)を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)と。
「似姿として造られた」を神学者のカール・バルトは「神への<差し向かい>として造られた」と解釈しています。このように人間の造られ方は、他の生き物とは違う、神さまの似姿を持った人間として造られたのです。人間はただ単に「生物」ではなく、神さまに向かって「生きる者」(生活する者)として造られたのです。
差し向かいとは、話し相手となっていることであり(神さまは言葉をくださり)、神さまはこのような交わり(会話)の対象として人間を必要とされたのです。
そして神さまの差し向かいとして造られた人間が、神さまと会話をするというあり方は、祈りです。
名著「祈りの精神」を表したフォーサイスは、「罪とは祈りのないことである」と言っています。人間は、神さまの霊(ルアッハ)をいただいている、つまり人格を持つ存在で、他の生き物と違って神さまに向かい、神さまと会話する、交わりの対象として造られているからです。フォーサイスは、神さまと会話する存在である人間が神さまと会話をしないということは、神さまにとって悲しいことではないかと言っているのです。
私たち人間は神さまの創造の御業によって「生きる者」とされたのですが、私たちはただ肉体的いのちの存在だけでなく、ほかの生き物と違って神の似姿・神のいのち(ルアッハ:神の霊)にあずかっている「霊的いのち」を持つ存在であるのです。
霊的いのちとは、聖書では「神に結ばれていること」で、このいのちこそ聖書が中心的に伝えていることなのです。
肉体のいのち(この世のいのち)が死後、霊的いのちに変化するのではありません。また、肉体のいのちの延長が霊のいのちになるのでもありません。
肉体のいのちは神さまから与えられている大切なもので、この世では金銀や財宝にも勝る尊いものです。しかし、その大切さはベターであっても、ベストではない場合もあります。冷静にそれは地上でのいのちであることを弁(わきま)え知っておくことは大事なことです。地上と言うすべてが過ぎ去っていく中での肉体のいのちです。
だが私たち地上で生きている者は、そうは知っているものの、地上でのいのちを最上として生きています。それは当然中の当然のことです。そしてこの世で一番悲しいことは、いのちを失うことだからです。地上(この世)のいのちを失うことによって、今まで一生懸命努力し積み上げてきたものがガラガラと崩れ去っていくのですから。
ここで主イエスの言葉を思い起こしましょう。「人はたとえ世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)と。
本当にそう思います。しかし主イエスが言われた「自分の命を失ったら」のいのちは肉体のいのちなのでしょうか。それとも神さまとのつながりである霊のいのち、永遠のいのちなのでしょうか。私はもちろん過ぎ行く地上でのいのちを軽く見るのではありませんが、ここで主イエスが示されたのは、永遠のいのちの源である生ける神さまと結ばれている霊的いのちのことです。霊的ないのちを失うこと、神さまとの結びつきが切れてしまうことが聖書の言う「死」であり、その死からの救いは、主イエスご自身その死の場(この世)に来られて、私たちと神さまとの新しい結び目となってくださったところにあります。
主イエスのみが私たちの失った神さまとのつながりとなられ、まことのいのちへと贖い出してくださる十字架の主であることを今週の招きの言葉マタイ16:26が示しているのです。
星野富弘さんの詩に「いのちが一番大切だと思っていたら、生きているのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しくなった」と。ここで言われているいのちは、過ぎ行く地上のいのちであり、「いのちより大切なもの」とは、神さまと結ばれている霊のいのち、地上のいのちを根底より支えるまことのいのちを指しているのではないでしょうか。