「平和をもたらす道」 ルカによる福音書19:37~44

深谷教会平和聖日礼拝2023年8月6日
司会:渡辺清美姉
聖書:ルカによる福音書19章37~44節
説教:「平和をもたらす道」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-497
奏楽:杉田裕恵姉

 説教題 「平和をもたらす道」    ルカ19章37節~44節       

 「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。」(ルカ19:41,42新共同訳)
 日本基督教団の教会歴によりますと8月の第1主日は、平和聖日となっています。今朝は、聖書から真の平和について共に学んで参りましょう。
 今週の招きのことばルカ19:41,42は、イエス・キリストが十字架の主としてエルサレムに入城される直前、オリーブ山の頂から愛するエルサレムを望み見て涙を流された箇所です。私は主イエスが涙を流されたエルサレムとは、まさに平和の道を知らない現代の世界のことであると思います。
 エルサレムとは「神の平和」と言う意味がありますが、その神の都と言われたエルサレムは、この世に真の平和をもたらすために建てられたのです。
 エルサレムについての一つの伝説があります。「イスラエルに二人の兄弟が住んでいました。兄は結婚して妻と子供がいて、弟は独身でした。二人とも働き者の農夫であったが、父親が死んだとき、二人は父の財産を分け、すべての収穫を二等分してそれぞれの納屋に収めました。夜になって弟は思った。『兄には女房も子供がいて大変だろう。自分のものを少し分けてあげよう』と。弟はそっと兄の納屋に相当分を移しかえました。その同じ夜、兄もまた思いました。『自分には子供がいるから老後はちゃんと見てもらえる。だが弟は独身だから老後のために備えがなければならないだろう』と。兄はそっと相当分を弟の納屋に移しておいた。朝、兄弟が目を覚ますと昨日と全く同じ量の収穫物がそこにありました。次の晩も、同じことが繰り返されましたが、4日目の夜、兄弟はお互いに相手の納屋に運ぶ途中で会いました。そして兄と弟はお互いにどう思い合っていたかが分かり、持っていた物を投げ出し、抱き合って泣きました。この二人の兄弟がこのように抱き合って泣いた場所がエルサレムの神殿の建てられた場所である。」
 この兄弟の伝説が示すように、神さまの都であり、「神の平和」と呼ばれるのは、相手のことを思いやってつくしていく愛と平和がこの世に実現し、神さまの栄光が現わされるためであったのです。しかし、その後のエルサレムは愛どころか争いや憎しみを生み出す中心地となってしまったのです。ユダヤの民は、そこを自己を守る砦として神さまを利用し、他に対する本来の使命を忘れて、その結果エルサレムはイスラエル民族の歴史上もっとも激しい残虐な争いの数々が記録される場所となってしまったのです。このエルサレムの姿こそ、本来神さまの栄光を輝かすために造られたこの世が、その使命から離れ、破壊と悲惨を作り出す場となってしまった姿を示しています。エルサレムが平和の道を知らなかったように、この世は平和の道を知らないのです。
 主イエスは平和の主としてロバに乗ってエルサレムに入ろうとされた時「神の平和」から離れたエルサレムの滅びの姿を見て涙を流され、その滅びから救いのために十字架へと歩まれたのでした。
 神さまはご自身から離れた人類に「地はあなたのために呪われる」(創世記3:17口語訳)と言われましたが、まさにパウロも「彼らの足は血を流すのに早く、その道は破壊と悲惨とがある」と言っているのがこの世の現状です。
 戦時中、反戦運動に加わり投獄され、獄中で読んだニーチェの「この人を見よ」を読んだことがきっかけとなり、ドストエフスキーに出会い、キリスト教徒となった作家椎名麟三の「平和の不条理」は、罪から解放されていない人間の平和はいかに空しいものであるかを指し示しています。麟三は、「平和と言う輝かしい美しい願いがどんな人間にもある。しかしその平和のために、悲惨な戦いがさけられないことが私には分からない。本当の平和にはそんなはずがない。平和のためにと言って分裂対立抗争が繰り返されているが本当の平和は地上にはないということも事実ではないか。なぜなら本当の平和は人間がいてはどうにも具合が悪いからなのだ。・・。そのように、本当の平和は原罪の故に呪われている地上にはない。人間の手にはないが神の手にはある。その平和はイエス・キリストの恵みによって与えられているはずである。・・平和はこの世にはないということが絶対性を持っておりながら、しかもそれが絶対的でないというのは、イエス・キリストにおいて、ということによってのみである。丁度私共の死が絶対的でありながら、同時に、その死がキリストの復活において絶対的でないことを私共が知っているように、平和に対してもそのことが言える」と記しています。まさに椎名麟三がいうように絶望的状況の中に、平和をもたらすただ一つの突破口がこの呪われた地に起こされたのです。それは神さまに背を向けたエルサレムを見て涙を流された主イエスご自身が、その呪いを負われて十字架の上で血を流され平和をもたらす道となられたことによってです。
「もしおまえもこの日に平和をもたらす道を知ってさえいたら」(ルカ19:42口語訳)と言われた主イエスは、この世の私たちに不可能なことを求めておられるのではなく、すべて主イエスにある者は例外なく、新しく、平和をもたらす道に生きる者とされることを同時に語っておられるのです。キリストにある者は、敵意を十字架に架けて二つのものを一つとされた(エフェソ2:14新共同訳)、主の血にあずかっている者なのです。平和は敵意を十字架に架け、古い自分に死ぬことによって具体的に起こされてくるのです。日々自分の十字架を背負って私について来なさい」と言われた主イエスは、敵意、差別、無視、過酷、嫉妬、憎悪などに足を踏み込んでしまっているこの私たちが、まず十字架において日々死を経験することを求めておられるのです。これらの平和に反する敵意などの可能性をそのままにして、いくら理想を掲げても、そこは敵意、テロ、憎悪の繰り返しがどんどん激しく、流血の泥沼化していくことは、この世は嫌と言うほど経験しているのです。
 主イエスはこのように、平和をもたらす道を知らない悲惨なエルサレム(この世)に、十字架の主、贖いの主として真の平和の道そのものとなられるために入城され、私たちへと来てくださるのです。全世界はこの十字架の主にしっかり目を向けることから歩みを始めなければならいのではないでしょうか。

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