「私たちが証しするもの」 ルカによる福音書10:1~16

深谷教会聖霊降臨節第10主日礼拝2023年7月30日
司会:西岡義治兄
聖書:ルカによる福音書10章1~16節
説教:「私たちが証しするもの」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-521
奏楽:平石智子姉

説教題 「私たちが証するもの」    ルカ10章1節~16節       

 「ノアの種族である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」(創世記10:32)
 今朝の聖書の箇所の初めに主イエスが72人を任命し、ご自身が行くつもりの「すべての町や村に二人ずつ先に遣わ」(10:1)されたと記されています。主イエスの目的は、「神の国」が到来した事実を告げ知らせることです。
 なぜ、「72人」なのかそれは、おそらく旧約聖書の創世記10章に遡(さかのぼ)ります。そこには、洪水後、ノアの息子セム、ハム、ヤフェトから「氏族、言語、地域、民族ごとにまとめた」(創世記10:31)72人の子どもたちが記されていることによるからだと思います。これに合わせ、神の国の到来という福音を伝えるために12の6倍である72人が新しいイスラエルとして選ばれました。主イエスは彼らを通して、「すべての民に神の国に生きよ」という招きを与えておられるのです。だからこそ、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(10:2)と言われるのです。
 主イエスは、今も私たちを派遣し、すべての人に神の国が来たことと、神の国に生きることへの招きを与えておられるのです。私たちキリスト者は、主イエスの使者(使徒)として派遣されていることを自覚したいと思います。 
 主イエスは、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送りこむようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな。」(10:3,4)と言われます。
 使徒の勤めは、自分を遣わしたものの言葉をしっかりと伝えることです。その場合挨拶は危険です。この場合の挨拶とは、互いの近況を知らせ合ったりすることも含まれます。そのような挨拶をしているうちに、神の国が到来したという肝心かなめの福音がないがしろになってしまうことがしばしばあるからです。「神の国の到来」とは、世を救うイエス・キリストが降誕されたことを指します。そして、この「キリストの救いを信じ受け入れた者は、神の愛のご支配、つまり神の国に生きる者」とされるのです。
 また、狼と小羊は、強者と弱者の違いがあり、違う秩序を生きています。神の国と人の国とではまったく違います。地上の国は強者が圧倒的に支配します。強者が支配する人の国に対して、主イエスがこの世に来られたことによって、弱者が大切にされ、強者がそれを支える神の国が到来した事実を告げ、神さまの愛が支配する神の国に生きるように、全ての人を招くのが使者である私たちの勤めです。その勤めを果たす時、主イエスは「財布も袋も履物も持ってゆくな」と弟子たちに言われます。ふつう、「旅の準備をしなさい」と言うはずです。しかし、神の国の到来を告げる旅に、人の国(この世)において必要な準備はしないでよいというのが、小羊の備えであるのです。つまり、必要をすべて神さまが満たしてくださるから神さまに頼ればよいとおっしゃっているのだと思います。
 主イエスは、どこかの家に入ったなら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人に留まる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る」(10:5,6)と言われます。ここには四回も「平和」と言う言葉が出てきます。この平和は、戦争のない状態を表す平和ではありません。私たち人間は、現実問題、戦争のない平和を造り出すために、核の抑止力に代表されるように莫大なお金を使います。人間同士の間で武器を使わないために、武器を多く持つのです。
 しかし、主イエスが広めたいと願っている平和は、神さまとの間の平和(和解)です。神さまに背を向け、互いに兵器を持ちつつ、戦争のない状態としての平和を造り出すことは、狼の牙を研ぎながらのかりそめのものでしかありません。
 神さまとの間の平和を告げるということは、その意味で非常に大変なことなのです。それは、自分が神さまに背を向けているということを、つまり罪人であるということを認め、悔い改め、神さまが遣わされた主イエス・キリストの十字架の救いを信じ受け入れ、罪を贖っていただき、新たに神さまに従う者、即ち神の子に生まれ変わらせていただくことが必須だからです。それでも私たちは、この神さまとの和解の使者である主イエス・キリストによって神の国が到来したことを信じるように告げ知らせるのです。この主イエス・キリストの前に、ひざまずくことなしに、人の国(人の世)に真の平和は訪れないからです。
 それぞれの宗教には、食物規定があります。だからこそ、主イエスは、弟子たちに歓迎して迎え入れてくれたなら、その家で出されたものをなんでも感謝していただくことが大事なのだと言われたのです。それは、神さまとの間に平和を与えられた者は、地上の戒律から自由にされているからです。神の国に生きるとは、地上の戒律から解放されることでもあるのです。(また、互いの違いを尊重し合うことへの勧めが込められているように思います。)
 神の国と人の国では、秩序が違います。病人の癒しも、神の国では見捨てられた人はいないことを表しています。大切なのは、「神の国はあなたがたに近づいた」(10)と言う言葉を信じ、悔い改めて、神の国に生きるということです。神さまのご支配の下、み旨に従って生きるということです。10章12~15節には、悔い改めなければ、ソドムやティルスやシドンのように大変なことになると記されていますが、運命的に受け止めるのではなく、警告として受け止めたいものです。
 主イエスは、最後に「あなた方に耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなた方を拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」(10:16)と言われます。 
 私たちは、聖書や説教を通して、また、聖餐の恵みにあずかりながら、主イエスこそ、私たちの救い主であるという信仰を育んでいただきながら、悔い改めて神の子、神の使徒としてこの世に遣わされた者として、「神の国」の到来を証しするのです。

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